方丈記008)下賀茂~大原~日野・外山(鴨長明出家の経緯:118?~1212年)

 わが身、父方の祖母の家を伝へて、久しくかの所に住む。その後、縁かけて、身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに、あととむることを得ず。三十余にして、さらに、わが心と、一つのを結ぶ。これをありし住まひにならぶるに、十分なり。ただ、居屋ばかりを構へて、はかばかしく屋を造るに及ばず。わづかに、築地けりといへども、を建つるたづきなし。竹を柱として、車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水の難も深く、白波のおそれもさわがし。
 すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その、をりをりのたがひめに、おのづから、短き運をさとりぬ。すなはち、五十の春をへて、家をで、世をけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず。何に付けてか、めん。むなしく大原山の雲にして、また、かへりの春秋をなんにける。
 ここに、六十の露消えがたに及びて、さらに、末葉の宿りを結べることあり。いはば、旅人の一夜の宿を造り、老いたるを営むがし。これを、中ごろのに並ぶれば、また、百分が一に及ばず。とかく言ふほどに、歳歳に高く、はをりをりにし。その家の有様、よのつねにも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて、造らず。土居を組み、うちおほひをきて、継目ごとに、かけがねを掛けたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすくへ移さんがなり。その、改め造ること、いくばくのひかある。積むところ、わづかに二輛、車の力をふほかには、さらに他の用途いらず。
 いま、日野山の奥に、跡をかくして三尺余りのひさしをさして、折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を造り、北によせて、障子をへだてて、阿弥陀絵像安置し、そばに普賢をかけ、前に法花経を置けり。東のきはにのほどろを敷きて、夜のとす。西南に竹の吊棚を構へて、黒き皮篭三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに、琵琶おのおの一張を立つ。いはゆるをり・つぎ琵琶これなり。かりのの有様、かくのし。
 その所のさまをいはば、南に懸樋あり。岩を立てて、水をめたり。林、近ければ、爪木を拾ふにしからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡をめり。谷しげけれど、西晴れたり。観念のたより、無きにしもあらず。春は、藤波を見る。紫雲のごとくして、西方ふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出山路る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからる。さまたぐる人もなく、また、づべき人もなし。ことさらに、無言をせざれども、れば、口業めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。もし、白波に、この身を寄するには、岡の屋に行きかふ船をめて、満沙弥風情を盗み、もし、の風、葉を鳴らすには、潯陽を思ひやりて、源都督の行ひを習ふ。もし、余興あれば、しばしば松の秋風楽をたぐへ、水の流泉の曲をあやつる。芸はこれなけれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。り調べ、じて、みづからを養ふばかりなり。

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以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 私は、父方の祖母の家を引き継いで、長いことその土地に暮らしてきた。
その後、その家との縁は切れてしまい、私の身分も落ちぶれて、思い残すことはあれこれ多かったけれど、結局、跡を継ぐことも出来ずに終わってしまった。
三十何歳かの時に、自分から進んでその家を出て、粗末な小屋を一軒建てた。
この粗末な家屋を、それまでの住まいと並べてみれば、十分の一の大きさであった。
我が身を置くべき母屋だけ造り、それ以外の部屋は満足に建てることもできなかった。
土塀だけは辛うじて築いたが、門を建てる手だてもなかった。
竹を支柱にして作った車庫に、牛車を格納した。
雪が降り、風が吹くたびごとに、押しつぶされたり吹き飛ばされたりしそうな危うげなところなきにしもあらずの有様だった。
場所柄、河原近くなので、水難も深刻、盗賊の恐れにも心安らかではいられなかった。
 あれやこれやと、とてもまともに生きられたものじゃない世の中を耐え忍びながら生き永らえ、心悩まし続けた三十有余年であった。
その間、あれこれの場面ごとに、やることなすこと裏目に出て、我が身の運の悪さを自然と思い知らされた。
そういう次第で、五十歳の春を迎えた時、私は出家して、俗世を捨てた。
元より妻も子もない身だったので、捨てるに捨てられぬ未練な縁者もない。
朝廷から官位を受ける身分でもないし、主家から賜わる俸禄もない。
そんな私が俗世に執着すべき理由が、どこにあろうか?
そうして無為のうちに大原山の雲の下に寝起きする生活を重ねつつ、更にまた五年の春秋を経てしまった。
 六十年も重ねてきた露のごとく儚い人生の終わりにほど近い頃合いに至って、今度はまた、吹けば飛ぶような儚い葉っぱのごとき庵を結ぶことになった。
言ってみれば、旅人が一夜を過ごすために小屋を造ったり、老いたカイコが我が身の回りにせっせと糸を吐いてマユに身を包むようなものだ。
この家を、かつてそう遠くない昔に造った河原の住み家と比べてみれば、更にまた百分の一にも満たない大きさである。
ああだこうだと言葉ばかり並べつつ無為の人生を送っているうちに、ふと気付けば、年を経るごとに私の年齢は高くなる一方、住み家の方は折りあるごとに狭くなっている。
この家屋の有様は、世間一般の住居とは似ても似付かない。
広さはわずか三メートル四方、高さは二メートルにも満たない。
「この場所!」と決めたらそこを永住の地とするような心持ちもない私なので、ただ「その場所を占有する」というだけの話で、まともな建物の造営などはしない。
土台を組み、適当に屋根を葺いて、壁の継ぎ目ごとに掛け金を掛けてバラバラにならぬようつなぎ止めてある。
もし何か気に食わないことがあれば、たやすく他の場所に移せるように、そうしてある。
こんな住居を、改めて別の土地に作り直すのに、さほどの面倒もあるまい。
建材や身の回りの品々を全部荷車に積み込んでも、必要な台数はわずか二輛分。荷車の運送費以外、一切出費不要のお気軽な引越である。
 今は、日野の山奥に世間から身を隠すようにして移り住んでいる。小屋にはその後、東側に1メートルほどの庇を張り出して、柴の木を折った薪をくべて火をおこす場所としている。
南側には竹のすのこを敷き、その西側には仏を祀る閼伽棚を造り、北寄りの障子越しに阿弥陀如来の絵図を安置し、その近くには普賢菩薩の絵図を掛け、その前には法華経の御経本を置いてある。
小屋の東端にワラビの穂の荒い敷物を置いて夜の寝床としている。
西南には竹の棚を吊り下げて、黒い皮の箱を三つ置いてある。
皮箱の中味はと言えば、和歌・管弦・往生要集などといった書物の抜粋本を入れてある。
そのそばに、琴と琵琶をそれぞれ一張ずつ立て掛けてある。
俗に言う折り琴・継ぎ琵琶というやつである。
我が仮の草庵は、そんな風な様子である。
 草庵周辺の様子はと言えば、南方には懸樋がある。
岩石を材料に自然の桶を組み立てて、水を貯めてある。
軒先近くに林があるので、小枝を拾って薪にするにも不自由はしない。
山の名前は「外山」という。
低い常緑樹のマサキの蔓が、道を埋め尽くしている。
谷には木々がこんもり茂っているが、西方は開けて遮るものがない。
仏のおられる西方浄土を拝みながら念仏唱えて悟りを開くには頼もしい土地柄、と言えなくもない。
春には、藤の花が一面に咲いて、まるで陸上の海に浮かんだ紫の波のような景色を目にすることができる。
藤の花の放つ色と香りは、紫だった雲のように西方へとたなびく。
夏にはホトトギスの鳴き声が聞こえる。
この鳥の別名は「死出の田長(しでのたをさ)」・・・その鳴き声が聞こえるたびに「私が死んだらこの山道をあの世まで案内しておくれよ」と約束を交わす私なのである。
秋にはヒグラシの声が耳いっぱいに鳴り響く。
蝉の抜け殻のごとく所詮は儚い現世を悲しんで泣いているのかな、とも聞こえる。
冬は、雪を見てしみじみとした感慨に包まれる。
積もっては消えるその有様は、成仏の妨げになるこの世の罪業にも例えられよう・・・生きている限り人は罪を積み重ね、仏法にすがって勤行を重ねればその罪はまた消えて、の繰り返し・・・そのサイクルに終わりはないのだ。
念仏を唱えるのも気が進まず、律儀にお経を読むのもサボりがちな時には、自分の心のおもむくままに勤行を休み、仏道怠慢も思いのままである。
私が何をしようとも別に邪魔する人はいないし、私が何をせずとも別に恥じ入るべき相手もいない。
わざわざ改まって「無言の行」に励むわけではないけれど、一人きりで暮らしていれば「口は災いの元」の悪弊封じもお手の物である。
必ずしも禁戒を忠実に守っているというわけではないが、禁を破らねばならぬ境涯にある私でもないのだから、一体何を契機に破戒を演じたりするというのか・・・人の世に暮らせばこそ、仏の道に外れるのだ。山住みの隠遁者には、道の踏み外しようもないのである。
世を捨てたとはいえ、仏法修行もいい加減な私は、気が向けば俗世の風雅に立ち返ることもある・・・「世の中を何に例へん朝びらき漕ぎ去にし舟の跡無き如し」(『万葉集』巻第三)/「世の中を何に例へん朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」(『拾遺集』巻第二十)という歌に詠み込まれた、束の間水面に浮かんではすぐに消え去る航跡にも例えるべき儚い我が身を、宇治川の白波に仮託してしみじみとした感慨にひたる朝には、岡の屋(=宇治川の木幡東岸一帯の地名)を行き交う船をぼんやり見ながら、詠み手である万葉歌人満誓沙弥(俗名は笠朝臣麿:かさのあそみまろ。従四位上。筑紫観音寺別当)の心を動かした風情にちゃっかり便乗し、カツラの木の葉を揺らす夕暮れの風の音に感じるところがあれば、左遷先の潯陽江で琵琶の音に感じ入って名詩を作った白楽天を思い浮かべつつ、「桂大納言」こと平安中期の大文化人源経信にならって琵琶を奏でたりもする。
更にまた興が乗れば、松を吹く風の音色に合わせて琴で合奏してみたり、水の流れる音に合わせて流泉の調べを琵琶で奏でたりもする。
演奏技巧は御粗末ながら、私は別に、誰かの耳を楽しませようとして弾くわけではない。
一人で音色を奏で、一人詩歌を声に出して歌っては、我が身一つの情感を満足させる・・・ただ、それだけのことなのだ。

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