方丈記009)子供の友・自然の友(山居の楽しみ:1208~1212年)

 また、に一つの柴のあり。すなはち、この山守る所なり。かしこに、小童あり。時々来たりて、あひふ。もし、つれづれなる時は、これを友として、遊行す。かれは十歳、これは六十。その、ことのほかなれど、心をむること、これ同じ。茅花を抜き、岩梨をとり、零余子をもり、をつむ。は、すそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて、穂組をつくる。もし、日うららかなれば、峰によぢのぼりて、かに故郷の空を望み、木幡山伏見の里・鳥羽羽束師を見る。勝地なければ、心をむるにりなし。ひなく、心遠くいたる時は、これより峰つづき、炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間で、石山む。もしはまた、粟津の原を分けつつ、蝉歌ひ、田上河を渡りて、猿丸大夫が墓をぬ。帰るさには、をりにつけつつ、桜を狩り、紅葉をもとめ、を折り、木の実を拾ひて、かつは仏にり、かつは家土産とす。もし、夜しづかなれば、窓の月に故人をしのび、猿の声に袖をうるほす。草むらのは、遠くの島の篝火にまがひ、の雨は、おのづから、木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かと疑ひ、峰の鹿の近くれたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。はまた、み火をかきおこして、寝覚の友とす。しき山ならねば、の声をあはれむにつけても、山中の景気、をりにつけて、くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らんと思ふ人のには、これにしも限るべからず。

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以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 また、山麓に一軒、柴の木で結んだ粗末な小屋がある。
これ即ち、この「外山」を守る番人が居住する場所である。
その小屋に、小さな子供がいる。
たまにその子が私の草庵近くに来た時など、小屋の中の私を訪ねたりする。
私の方でも暇を持て余している時には、このちびっ子を友として、あてどなく出歩いたりする。
あちらは十歳、こちらは六十歳である。
年齢こそまるで違うが、自然の中に遊ぶことで心浮き立つ思いは、ちびっ子も老人もまったく一緒である。
ある時は、チガヤの花を引っこ抜き、地梨を取って食べ、自然薯の蔓から小芋を摘み取り、セリを摘んだりする。
ある時は、山から下りて裾野に広がる田んぼの辺りまで行って、落ち穂拾いをし、刈り取った稲穂を束ねて組んだりする。
うららかに晴れ渡った日には、山の峰によじ登って、かつて自分が住んでいた京都の上空を遙か彼方に眺めては、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師を見る。
人間界のあれこれにはどれもこれもみな持ち主が決まっていて余所者には手が出せないが、自然界の景勝地には特定の主人というものがないのだから、気晴らしに楽しむにも誰に遠慮することもない。
歩くのに物理的に難儀せず、気分的にも遠くまで行きたい時には、ここから更に峰伝いに炭山を越え笠取を通過して、ある時は岩間寺に参詣し、ある時は石山寺を参拝する。
あるいはまた、粟津の野原に分け入っては伝説の歌人蝉丸の史跡を訪ね、田上川を渡ってはこれまた伝説の歌人猿丸大夫の墓を訪ねたりする。
帰りしなには、季節の趣に合わせて、桜狩りをし、紅葉を見に行き、ワラビを手折り、木の実を拾って、その一部は仏様にお供えし、一部は家に持ち帰る土産にする。
閑静な夜には、窓から月を眺めては今は亡き知り合いを思い出し(=「三五夜中新月色 二千里外故人心」『白氏文集』白楽天)、猿の鳴き声に心震わせては涙で袖を濡らす(=「巴猿三叫 曉霑行人之裳」『和漢朗詠集』大江澄明)。
草むらにちらちらと見える蛍の光は、遙か彼方の槇の島のかがり火と見まごうばかりに瞬き(=「木の間より見ゆるは谷の蛍かも漁りにあまの海へ行くかも」『玉葉集』伝 喜撰法師)、明け方に降る雨はどことなく木の葉を揺らす山風を彷彿とさせる(=「神無月寝覚めに聞けば山里の嵐の声は木の葉なりけり」『後拾遺集』能因法師)。
山鳥がほろほろと鳴く声を聞けば、懐かしい父・母の声かと思わず耳を澄まし(=「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」行基菩薩)、峰に住む鹿が我が草庵近くを馴れた態度で歩くのを見ては、自分がいかに人里離れて暮らしているかを思い知る(=「山深み馴るるかせぎのけ近さに世に遠ざかる程ぞ知らるる」『山家集』西行法師)。
あるいはまた、火鉢の底に埋もれた火を火箸で引っかき回して再びおこしては、夜にふと目覚めたまま寝付かれなくなる老人特有の虚ろな時間を共に過ごす伴侶にする(=「言ふ事も無き埋み火をおこすかな冬の寝覚めの友し無ければ」『堀川院百首』源師頼)。
恐ろしく山深い場所でもないので、フクロウの声を聞いても恐怖は感じず、むしろしみじみとした感慨を催す(=「山深みけ近き鳥の音はせで物恐ろしきふくろふの声」『山家集』西行法師)・・・こんな具合だから、季節ごとに様々な顔を見せる山中の景色のバリエーションは無限大、汲めども尽きぬ豊かさである。
私のような半端な世捨て人でさえそう感じるぐらいだから、ましてや、感性や知性の器量が大きい人、深い感動や知識を探求する人にとっては、上に記したもの以外にも色々と心動かす物事が、この山中には無限にあるに違いない。

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