方丈記011)我が主にして奴・すべて自然のままに(孤独の特権:1208~1212年)

 それ、人の友とあるものは、富めるをみ、なるをとす。必ずしも、あると、すなほなるをば愛せず。ただ、糸竹花月を友にせんにはしかじ。人のたるものは、賞罰はなはだしく、恩顧あつきをとす。さらに、はぐくみあはれむと、安く静かなるとをば願はず。ただ、わが身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするとならば、もし、なすべきことあれば、すなはち、おのが身を使ふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をみるよりやすし。もし、くべきことあれば、みづからむ。苦しといへども、馬・・牛・車と、心を悩ますにはしかず。今、一身ちて、二つの用をなす。手の、足の乗物、よくわが心にかなへり。身、心の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ、まめなれば、使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。ものうしとても、心を動かすことなし。いかにいはんや、つねにき、つねに働くは、養性なるべし。なんぞ、いたづらに休みらん。人を悩ます、罪業なり。いかが、他の力を借るべき。衣食の、また同じ。藤のるにしたがひて、をかくし、野辺のおはぎ、峰の木の実、わづかに命をつぐばかりなり。人にまじはらざれば、姿をづるいもなし。しければ、おろそかなるをあまくす。すべて、かやうの楽しみ、富める人に対して、いふにはあらず。ただ、わが身一つにとりて、昔と今とをなぞらふるばかりなり。
 おほかた、世をのがれ、身を捨てしより、みもなく、恐れもなし。は天運にまかせて、しまず、いとはず。身は浮雲になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期の楽しみは、うたたねの枕の上にきはまり、生涯の望みは、をりをりの美景に残れり。

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以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 そもそも、人間の友人というものは、相手が金持ちならばこれを敬い、自分をねんごろに(うわべだけでも)もてなしてくれる相手と真っ先に親しくなる。
人の情によく通じているとか、心根が素直であるとか、そういう理由で人を愛しこれを友とするわけでは、必ずしもないのだ。
実質を見ずうわべだけを見てくっついたり離れたりするばかりの浅い付き合い、それが人間界の「友達」というものだ・・・そんな友を相手にするぐらいなら、ただもう楽器を友にして共に音色を奏でたり、自然を友として心の琴線を震わせてもらうほうがましだ。
人間を「友達」ならぬ「召使い」として我が家に招き入れた場合も、相手は賞与や恩典の大きい者を優先する。
召使いをいたわり大事に育ててくれる御主人様だの、召使いが心安く落ち着いて暮らせる環境だのを望むわけではさらさらない。
人間的な心の平安を共有できる相手ではなく、物質的享楽を少しでも多く奪い取るべき相手・・・そんな立場で「御主人様」と対立する召使いを持つぐらいなら、ただもう我が身一つを「御主人様・兼・召使い」とするほうがましだ。
自分自身を自らの召使いとするとはどういうことかといえば、やるべきことがあれば自分自身でやる、ということだ。
精神的にも肉体的にもカッタルイことなきにしもあらずだが、他人に金を出して召し使っておきながら、その他人に気を遣うカッタルさよりはまだ心安いものである。
歩かねばならぬ用事があれば、乗り物など使わずに自分の足で歩けばよい。
シンドいけれども、馬に鞍、牛に車を借り出してこれに苦役を強い、自分は自分で借り賃だの何だのと気をもむのに比べれば、徒歩での移動の方がまだましだ。
今の私は、我が身一つを二つに分けて、異なる役柄を演じている・・・けなげに働く「召使い」としての自分と、いたわり使う「御主人様」としての自分である。
私自身の手は「召使い」として、私自身の足は「乗り物」として、「御主人様」たる私自身の心に忠実に働いてくれる。
身体は心の切実な思い(早く早く、急いで~しなくちゃいかんのだよ!)を知り、心は身体の苦しさ(ふぃー、ちょっとは休ませておくれよ!)を知る・・・心身合一の「御主人様・兼・召使い」たる私は、肉体が疲労や苦痛で悲鳴を上げれば休憩するし、実直に働けるコンディションならせっせとこき使う・・・THE BEST SERVANT and THE BEST MASTERの最良コンビである。
こき使う、とは言っても、度重なる過重労働などはしない/させない。
「気分がすぐれませんので、休ませていただきます」なんて普通の召使いに言われたら、御主人様たる私としては(あぁ、私はこいつを少々こき使いすぎたかなぁ・・・それとも、こいつは安い給金に不満で働きたがらないのかなぁ・・・あるいは、私が甘い顔するのをいいことに、こいつサボり癖が付いたかなぁ・・・ぼちぼち昇給させないとだめかなぁ・・・ひょっとしてもう、労使関係解消が得策な時期になっちゃってるのかもしれないなぁ・・・)等々、あれこれ心が動揺するわけであるが、今の私は「御主人様・兼・召使い」なのであるから、労使関係も以心伝心、相手が今どう感じているかは我が事のように(というか、まぎれもなく我が事なので)バッチリわかるので、気乗りせず働きたがらぬ召使いの様子を見ても、御主人様の心理は微動だにしないのだ。
言うまでもないことながら、常々「我が足という名の乗り物」を使って歩き回り、常々「我が手という名の召使い」をこき使って働くのは、心と身体を養う善行というべきであろう。
である以上、どうして無為に手足を休めてぼーっとしてなどいられるものか。
他人様を悩ませることは罪作りであり、あの世でロクでもない目に遭う原因となる。
である以上、どうして「自分以外の召使い」の力を借りたりできるものか。
衣食の類に関してもまた同様で、自分一人身を包む用を足すために着たり、命をつなぐために食ったりするのは構わないが、他人様の目を気にし出したら途端に地獄行きの因業を自ら招くことになる。
藤衣(クズで作った質素な着衣)や麻衾(目の粗い寝具)を、あれがいいこれはだめなどと選り好みせずにただ手に入ったら素直にそれを使うという自然体の態度で、ただ素肌を隠すのに使うのが「罪なき衣」であるし、野辺に生えるヨメナ(菊科の多年草)や峰に生える木の実を取って食べる生活こそ、生存に必要最低限な「罪なき食」である。
他人様と交際しなければ、人目を気にして我が身のみすぼらしさを恥じたり残念に思ったりする心の悩みもない。
飽食の生活の中で舌が肥えてしまった人間というものは、よほどの美味・珍味でもなければ「不味い!」と不満がるエスカレーター式欲求不満食生活に自らを追い込み、脂肪分だらけの内臓も贅肉だらけの肉体も不健康、料理人相手には不満顔、精神的には無意味に貪欲で虚栄心旺盛、まったくロクでもない自殺的愚劣スパイラルを地獄めがけて真っ逆さまに転げ落ちる不機嫌なブタに成り下がるしかない・・・常日頃から食糧乏しき生活に身を置けばこそ、粗食も美味と感じられるのだ・・・Hunger is the best sauce.(空腹に勝るソースなし)であり、Gluttony is the worst cook.(貪欲は最悪の料理人)なのである。
ここまで、総じて「このような楽しみ方がある」ということを書き並べてみた・・・が、私は別にそれを、裕福な人に対して当てつけがましく述べているわけではない。
ただ、私自身の個人的人生に関し、「昔の自分はああだったけれど、今の自分はこうである」と比較対照する形で書いてみたまでのことだ。
 概して言えば、人里を離れて野山に隠れ住み、俗世に生きる立場を捨ててからというもの、私には、誰かを恨む感情もなく、何かを恐れる不安もない。
この命はいつ尽きるとも知れないが、それを決めるのは私ではなく天運であるから、運命の命ずるままに、「はい、もうお前はあの世に行く時間だよ」と言われれば「はい、じゃ、逝きます」とすっぱり割り切って死ぬまでのことであって恋々とこの世に執着はしないが、さりとて「おい、まだお前はこの世にとどまらなきゃいけないよ」と天運が私に命じる間は、何とも生き辛い末世とはいえ「イヤだ、シンドい、もう死にたい」などとダダをこねたりもしない。
我が身は空に漂う浮き雲のようなもの・・・どこに行き着くか知れたものではないし、いつまで浮かんでいられるかもわからない・・・確実な未来を当てにすることもなく、唐突な死が訪れても「いやだ、まだまだ物足りない、もっと生きて、あれもしたい、これもしたい」などと欲張りなことは言わない。
死ぬまでに味わい尽くしたい歓楽のすべてなど、実人生で極め尽くすことは到底出来まいが、うたた寝の枕の上ですやすやと見る夢の中でなら、現世のいかなる権勢家にも叶わぬ夢物語がやすやすと実現するのである・・・一炊の夢・邯鄲の夢・・・偉人の野望は凡人のうたた寝にしかず・・・人間がその生涯のすべてを費やして成し遂げたい宿望は、たとえ達成できたとしても、それがいかなる偉業だとしても、人間界の物差しに照らせばいかにも誇らしいその所業も、自然の作り上げた美しきこの世界の偉容を前にすれば、いかほどのものか・・・見るがよい、私が籠もるこのささやかな山中の、季節ごとに同じ顔なき無尽蔵の豊かな美景を・・・我が一生の宿願は、この景勝に包まれてひたすら心を潤すこと。この自然の美、自然な生き方の中で、天運の尽きるまで過ごせれば、私にはもう思い残すことはない。

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