方丈記012)思はずはあさまし・思はば狂ほし(三界一心、六十路の妄心:1212年3月末)

 それ、三界は、ただ心ひとつなり。心、もし安からずは、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣も望みなし。今、さびしき住まひ、一間、みづからこれを愛す。おのづから都にでて、身の乞匈となれることをづといへども、帰りてここにる時は、他の俗塵することをれむ。もし、人、この言へることを疑はば、と鳥との有様を見よ。は、水にかず、にあらざれば、その心を知らず。鳥は、林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居気味も、また同じ。住まずして、かさとらん。
 そもそも、一期月影傾きて、余算の山のに近し。たちまちに、三途に向かはんとす。何のをかかこたんとする。仏の教へふおもむきは、ことに触れて、執心なかれとなり。今、草庵を愛するも、とがとす。閑寂するも、りなるべし。いかが、なき楽しみを述べて、あたら時を過ぐさん。
 静かなる、このことわりを思ひつづけて、みづからに心に問ひてく、世をのがれて、山林にまじはるは、心をめて、道を行はんとなり。しかるを、、姿は聖人にて、心はりにめり。はすなはち、浄名居士をけがせりといへども、つところは、わづかに周利槃特が行ひにだに及ばず。もしこれ、貧賎のみづから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、せるか。その時、心さらに答ふることなし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請とじの阿弥陀仏両三遍して、やみぬ。
 時に、建暦二年弥生のつごもりごろ、桑門蓮胤外山にして、これをす。

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以下、アンチョコ現代語訳・・・作った人は→之人冗悟(Noto Jaugo) of http://fusaugatari.com/
現代日本語訳

 欲界・色界・無色界、仏教に言う三界は、それぞれ別個に独立して存在する世界ではなく、あらゆる物象は各人の心に映る仮の現象でしかない・・・三界一心・・・本質は一つであり、それを三つの異なる世界と化すのは、ただ見る者の心の持ちよう一つなのである。
見る者の心が安らかでなく、何を得ても更にまたその上を望む貪欲に支配されているならば、象宝・馬宝・七珍万宝、どんな素晴らしい宝物を手に入れても満足しないし、権勢の頂点に上り詰めて壮麗な宮殿やそびえ立つ楼閣を築いてこの世のすべてを見下ろす立場になっても、飽くことを知らぬその野望はなおも飢え渇いたまま、安息を得ることは望めないだろう。
今の私が暮らすのは、備わるべきものもろくに備わっていない家屋と、一部屋だけしかない草庵だけれども、私自身は積極的にこの侘び住まいを愛している。
何かのついでがあって京都まで出向いた時など、市中の有様と対比して、自分が乞食の身に成り下がってしまったことを恥ずかしく思う気持ちになる・・・けれども、京の町から帰ってこの草庵に身を置く時には、心安らかな隠遁者の私と引き比べて、他の人々が俗界の穢れの中を必死に駆け回っているのを哀れに思う気持ちになる・・・相反する矛盾した感情(ambivalent:アンビバレント)だが、それが私の偽らざる感覚なのだ。
もし、こう言う私の感情を「それはおかしいだろう?」と思うようならば、魚と鳥の有様を見るがよい。
魚はずっと水の中に暮らしているが、水の中の生活に飽きるということがない・・・人間の目で見れば「よくまぁ飽きもせず、何がそんなにいいわけ?」と問いたくもなるが、私は魚ではないので「水中最高!」という彼らの気持ちはわからない。
鳥は木々の間に暮らすことを望む。
人里に暮らす人間から見れば「あんな気味の悪い薄暗い世界の、何がそんなにいいわけ?」と不思議に思うが、私は鳥ではないので「森林最高!」という彼らの気持ちはわからない。
一人寂しき侘び住まいの心地も、同様である。
侘び住まいを体験せずして、隠遁者の気持ちが理解できる者など、誰もいないのだ。
 つらつら思うに、我が一生はすでにもう傾いて地平の彼方に沈みかけた月のようなもの、余生ももはや山の稜線に隠れて完全に消え入ろうとする最終盤にさしかかっている。
もう今すぐにも、死者がこの世の悪業の果てに堕ちるという地獄・餓鬼道・畜生道の三途の川の暗闇に向かおうとしている。
そんな人生の土壇場に至って、今更、我が人生の所業のあれがいけなかっただのこれはこうしたほうがよかったのにだのと、グチグチ不満を並べ立てて、どうなるというのか?
仏の説かれる教えの主旨は、「何事に関してであれ、深く執着する心を持ってはいけない」ということに尽きる。
先ほど私は「この草庵を愛する」と書いたが、その草庵への愛着もまた、仏教の教えでは「罪」とみなす。
閑寂な隠遁生活に執着するのもまた、極楽往生の支障となる罪業、ということになるに違いない。
・・・ということになると、「今の自分はこんな風なことに楽しみを見出している」などと無益な文章並べ立てて時間を浪費するのは勿体ないではないか、何でそんな無駄なことをするのか(・・・ん?「時間を無駄にせず、有益な何事かを生み出して、より良い人生を送りたい」というのもこれまた執着、ということになるのか?・・・こんな風にあれこれ心を悩まして「より良い心の持ちようへとレベルアップしないといけない!」と執念深い向上心に急き立てられるのも、これまた欲深い執心、極楽往生の妨げになるのか?・・・考えれば考えるほど、悩みは深まり、極楽は遠のく・・・考えず漫然と過ごせば、無為の我が身がまた悩ましい・・・悩むも地獄、悩まぬも地獄・・・「世間」という大きな悩みの因を捨て去っても、「心」という苦悩発生装置を捨て去ることはできない・・・それ、三界は、ただ心一つなり・・・その心一つが、問題なのだ)
 閑静な夜明け時、このような理屈をああでもないこうでもないと考え続けながら、私は、自らの心に問うてみた:「俗世を離れて山林に紛れて暮らすのは、心を安らかにすべく修行し、仏の教えを忠実に実践しようとしてのことである。
それなのに、お前は、外見こそ聖人君子だが、心の中味は俗世の濁りに染まったままだ。
住み家の方は、大金持ちでありながら質素な方丈の一室(=四畳半)に住み在家のまま悟りを開いた浄名居士維摩の前例を真似ているけれども、常日頃の行ないの方は、聡明な兄維摩に比すれば愚鈍だった弟周利槃特の勤行にも及ばない(その周利槃特でさえ、愚か者ながらもけなげに修行した挙げ句、最後には阿羅漢果、これ以上学ぶべきことはない最高の修行者の称号を得るに至ったのだ・・・それに引き替え、お前は・・・)。
この不徹底ぶりが、私をまた悩ますのだ、終わりのない堂々巡りの自問自答へと駆り立てるのだ、そうして悩むこと自体が執着だ、成仏の妨げだ、と自分で自分を鞭打つことになるのだ・・・もしやこれは、前世で世俗的欲望の追求に血道を上げた報いとして、今こうして無限の自問と自責に苦しみながら罪滅ぼしをしているということなのか?はたまた前世の因業の拙さゆえに貧しく賤しき身分になり果てた我が身の今の惨めさを悔やむ気持ちが自然と私の心を迷わせているのか?
あるいはまた、心の迷いが極限に達し、私は、発狂したか?」
・・・こうして自分の心に問うてはみても、心は何も答えてはくれなかった。
・・・問うだけ問うて、現世の栄華に加えて今また自らの心からも無視されてしまった私は、ただ、「口は災いの元」の舌の根について「世間とは無縁の一人暮らしだから舌禍とも無縁」とか言いながら、こんな愚にも付かぬ駄文や愚問の数々を無益に書き散らしながら、執着の種を自ら好きこのんで撒き散らしながら、その同じ穢れた舌で「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ、ナムアミダブツ」などと三度ほど念仏を唱えて・・・こんな迷いに満ちた舌で呼び寄せても阿弥陀如来がこの私を救いに来てくれるはずもあるまいな、などと、またしても無益な疑念に心を悩まして・・・結局その三遍きりの念仏で、おしまい。
 時に、建暦二(1212)年、三月の終わり頃、「桑門(出家した仏道修行者)蓮胤」こと鴨長明、外山の粗末な草庵にて、これを記す。

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