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立ち別れいなばの山の
  峰に生ふる
    まつとし聞かば今帰り来む

I bid farewell to you to depart for Mount Inaba,
Like mountains of pinewoods if you pine to see me then,
It won't be long before I come back again.

『小倉百人一首』016
たちわかれ いなばのやまの みねにおふる
 まつとしきかば いまかへりこむ
在原行平(ありはらのゆきひら)
aka.中納言行平(ちゅうなごんゆきひら)
男性(818-893)
『古今集』離別・三六五
あなたと別れて遠い因幡の国へと旅立つ自分ですが
・・・往く先の稲葉山の峰にも
「松」の生い茂っていることでしょうねえ
・・・でも、あなたが私を「待つ」と、
風のにでも聞いたなら、
すぐにも帰って来ますよ。
えぇ、そうそういつまでも
別れ別れでいるものですか・・・。
【文法・修辞法】掛詞+序詞+歌枕
...modern Japanese/English part: Copyright(C) fusau.com 2009
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品詞分解
たちわかれ【立ち別れ】<他ラ下二>連用形

 いなば【】<名>・・・因幡
 いな【】<自ナ変>未然形・・・往な
 ば【ば】<接助>

の【の】<格助>
やま【山】<名>
の【の】<格助>
みね【峰】<名>
に【に】<格助>
おふる【生ふる】<自ハ上二>連体形

 まつ【】<名>・・・松
 まつ【】<他タ四>終止形・・・待つ

と【と】<係助>
し【し】<副助>
きか【聞か】<他カ四>未然形
ば【ば】<接助>
いま【今】<名>
かへり【帰り】<自ラ四>連用形
こ【来】<自カ変>未然形
む【む】<助動_意志>終止形



修辞法
掛詞
<いなば>
1)「因幡」
2)「往なば」
<まつ>
1)「松」
2)「待つ」
序詞
「いなばのやまのみねにおふる」は「まつ」を導く
・・・この歌については、上記のような「序詞」関係を含まない、との解釈をする歌人も多いことを付言しておく必要があろう。その理由は、「序詞とは、歌全体の主たる意味には直接に関わることなく、歌の主意に関わる後続部を導き出す役割のみを演じる語句」という定義に、この歌の前半部が抵触するから、である。
・・・「山の峰に生ふる」だけ見れば、後続部の「松・・・転じて・・・待つ」の導出部としての役割以上の意味をまるで有さぬ語句であるから、これを「序詞」と呼ぶことに何の問題もない。
・・・しかし、「立ち別れ、因幡の」任国へと国司として在原行平が出向する、という事実は、この別れの歌全体の表わす意味構造の中で、確かな存在の重みを有している。それ故にこの「たちわかれいなばのやまのみねにおふる」という前半部を、後半部「まつ」の導出役に過ぎぬ「序詞」として片付ける訳には行かない、と言う人々も多いのである。
・・・「序詞」というものの曖昧さを示す一例である。「歌の主意に関わるか/関わらずに主意部導出役に徹するか」・「意味の本線を形成するか/本線を導く伏線に徹するか」の解釈次第で、ある者には「序詞」であるものが他の者にはそうではない、という事態が起こり得る訳である。
歌枕
因幡の山(因幡の国)
解題
 「見送りに出てくれたあなたとはここでお別れして、国司としての任国(・・・任期は四年間)の因幡の国に旅立つ私です」・・・が・・・「あなたが私を待っている、と風の便りに聞いたなら、すぐにも帰って来ようと思う私なのです」という内容の歌。
 「まつとし聞かば」の「し」は語調を整えたり強調したりするための副助詞で、特に意味はありません。現代にも残る「生きと"し"生けるもの」にも含まれるアレです。「今」という副詞は「たった今(now)」の意味ではなく「すぐにも(very soon)」の意味。現代語で言えば「おネェさーん、ビールまだー?」とせかすお客さんに「はーい、ただいまー」と答える場合なんかの「いま」で、本当の「今」とは時間的にズレがあります。末尾の助動詞「む」は意志を表わす用法で、「・・・しようと思う」であって「・・・だろうと思う」ではありません。英語でも"The rain will stop soon."なら「雨はじきに止むだろう」と当事者意識のない第三者的な推量形で訳しますが、"I will stop smoking soon."を「私はじきに禁煙するだろう」としたのでは、「この人、本気でタバコやめる意志はないなー」と思われてしまうから、「私はじきに禁煙するつもりだ」と訳すのが正しい、というあの論理と同じです。
 後半部の始まりの第四句冒頭「まつ」は、その主意は勿論「(あなたが私を)待つ」ですが、これを同音の「松」に引っ掛けた上で、直前第三句「峰に生ふる」(及びその直前第二句末尾の「因幡の山の」)がこの後続部へとイメージ的な橋渡しを演じる構造になっています。こうした場合、後続部「まつ・・・松、転じて、待つ」の呼び水として機能する「因幡の山の峰に生ふる」のことを「序詞」と呼ぶのが普通ですが、この歌の場合、そうは呼ばない人もいます。「立ち別れ因幡の」国へと旅立つ、という前半部の内容が、事実としての重みを有しているために、「後半部導出役としての役割"のみ"を演じ、歌の主意に直接には(イメージ的にはともかくも)関わることがない」という「序詞」の定義に反する、ということがその理由です。「峰に生ふる」の一句のみに関してはこれはもう後続部導出以外何の役割も果たさないので明らかに「序詞」なのですが、直前の「因幡の山の」を補わないと意味が完結しない感じもあるし、古文業界では「序詞は(通例)二句以上にまたがる」などという(五音の一句のみから成る「枕詞」との対照から生まれた)惰性的な「約束事」めいた定義が平然と幅を利かせてもいるので、「峰に生ふる」だけ取り出して「序詞」と呼ぶほどの勇気と論理性を持つ人は少ないようです。
 「序詞」というものの曖昧さを感じさせる歌ですが、日本最初の勅撰和歌集『古今集』(905)に先立つこと約半世紀という和歌(短歌)の黎明期の作品だけに、「本来の序詞って、後続部の導出役だけに終わってはならないものだった、のかもしれないなー」などと感じさせるフシもあって、そうした意味でも色々と考えさせられる歌ではあります・・・が、この歌にはもう一つ、(遙か後代になって生まれた)面白いエピソードがあるのです・・・。
 いつごろ誰が言い出したか知らないけれど、この歌は、「まいごになっちゃった飼い猫を戻すおまじない」になるんだそうです。「口で何回か唱えるといい」という説もあれば、「半紙に書いて猫のえさ入れに貼っておくとやがて帰って来る」という話もあるらしいです。
 空っぽの猫ボウルに貼られたこの歌の半紙の端が風にひらひら揺れている図・・・どことなく間抜けだけど、たまらなく切ない情景だとは思いませんか?・・・「ネコきらい!寄らないで!あっち行って!!」の無言の示威行動としての家屋外周水入りペットボトルの立ち並ぶ図(・・・あのキラキラを猫が嫌う、という俗説に由来するらしいですけど・・・)よりは、同じように非科学的でも、遙か愛おしい人間らしい風景だと思うのだけれど・・・あ、猫嫌いの人、ゴメンなさい。
 怒らせちゃった人もいそうだから、ちょっと言い訳を・・・私が思うに、おまじないには二種類あるんじゃないか、と・・・効力を求めて何かにすがるものと、内なる叫びが自然に外に飛び出しちゃったもの。「たちわかれ・・・」の猫まじないは後者のほう、ペットボトル籠城作戦は前者の典型。
 外なる力を私的利益のために引っ張ってこようとする陳情行為としてのおまじないは、その外なる力が「霊威」「宗教」「正統学説」「法律」「政治家」「科学」「エセ科学」「数の力」・・・とにかく何であれ「テコでも言うこと聞かせたる!」って感じで暴力的で相手も対象も何も見えずただひたすら自分自身の内なる欲求の充足しか考えていない一方通行の「おい、言うこと聞け!」モード、古語風に言えば「見遣し(みおこし)」指向・・・これって、見苦しいし、そんな風にこっちもロクに見ずに「オマエがこっち向け!こちらに合わせろ!力関係から言って、そうなるのが当然だ」とばかりグイグイの原理の押しの一手で来られたら、こちらだってテコでも動いてやるものか、という気になってしまいます。おまじない作用の強力さで対象を強引に動かそうとする人たちは、「作用には必ず同じ力で正反対の方向に働く反作用がある」という科学的真理を、物理法則よりは心理学で動きたがる人間世界に当てはめて考える程度の知性と感性ぐらい持った方がいいような気がします(・・・あっ、また多くの人達を怒らせちゃったかな?)。
 ・・・で、そういう「見遣し系」とは逆に、相手をしっかり見据えて、内なる思いを「どうか、届いて・・・」と祈りつつ外に向かって送り出す、いいえむしろ、内にめてはいられぬ思いが自然にはじけてさまよい出る、そんな「見遣り(みやり)」のベクトルを持った行為は、その祈りが実ろうと実るまいと、目的がおうと空しく終わろうと、いずれにせよ美しいし、出来ることなら(そう、私がもしも神様なら)応援してあげたい気分になる。だから、「たちわかれ・・・」のペラ紙はってある猫の入れとか、写真も住所も電話番号も包み隠さず「ネコさがしてます」と訴えるワープロ原稿のプリントアウトがあちこちの電柱にペタペタ貼られてる図(貼った柱の数が少ないとおまじない効果が薄れるとでも恐れていたのかしら、と感じさせるほどに延々と・・・)とか見ると、胸にも眼にもじーんと来ちゃうものがあるんです。これって、人の思いの表出であって、望みの提出とは違うから、こちらと相対して綱引き演じてるわけじゃないから、こちらも自然に相手と同じ方を向いちゃうから、反作用は働かないんです、ただひたすらこちらの気持ちがあちらになびいてしまうばかり・・・この頃は向かい合って座るボックスシートの向こう側から「どうです、こんなん?いいでしょー!」と訴えてはどっかに引っ張って行こうとする対座型の感動ばっか横行してるけど、私はそんなのより連座型で心動く自然な思いの融合的連鎖型心情が好き。
 ・・・なんだか、当面の歌とは関係が薄い方面に話がずれてしまいましたけど、とにかく「待ってるからね・・・こっちの声が聞こえたら、早く帰って来てね」というお祈りに似付かわしい優しい思いのこもるこの歌、詠み手在原行平さんです。第51代平城天皇の皇子阿保親王の次男ですが、臣籍降下して「在原」姓を名乗りました。「昔、男ありけり・・・」で始まる歌物語『伊勢物語』の主人公の「男」として有名な在原業平の兄にあたる人で、自由奔放なプレイボーイの弟とは異なり、和歌・学問の振興に努めた真面目な人だったようで、現存する最古の歌合せ在民部卿家歌合』(885年頃)を主催したり、藤原氏の学問所「勧学院」に対抗して在原氏の子弟教育のための「奨学院」を作ったりしました。役人生活が比較的順調だったのも(一時期は須磨に流されたりもしましたが)弟業平とは対照的で、最終的に官位は中納言(正三位)まで上がり、75歳で大往生を遂げています。
 この歌は37歳、つまり彼の人生のちょうどど真ん中に、従四位下に叙せられて因幡国(現在の島根県)の国守として下向する時に、見送りに来てくれた友人に向けて詠まれたものです。順調な出世街道まっしぐらの頃の作でもあり、実際、「帰り来む」の予言通り、2年ほどで帰って来たという史実もある(四年間の「国司」の任期の途中で不祥事起こした訳ではなく、現地管理は他人任せでもよかったらしいのです)ので、「ねこ、ねこ、かえってこ!」に効くよ、となったのかもしれません。
 この伝で言えば、行平奇しくも同じ37歳の時に詠まれ小野篁11番歌「わたのはらやそしまかけてこぎいでぬとひとにはつげよあまのつりぶね」あたりも、「今は左遷されて辛いけど、必ず戻って来てやるぞ!」のおまじないに使えるかもしれません。彼もまた、あの歌を詠んだ後ほどなくして許され、最終的には従三位まで昇官して人生を終えたのですから。
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