解題
修辞法として「
序詞」と、それを成立させるための「
掛詞」と「
縁語」、それに「
歌枕」を含む以外、(表面的には)
取り柄らしいものも何もない軽い歌。
「名に(し)負ふ」の意味は「自らの名前として持つ」だが、一歩進んで「その名前に
相応しい実質的内容を持つ」の意で用いられる場合が多く、ここでも「"
逢坂山のサネカヅラ"というのが名ばかりのインチキ広告みたいな虚名でなく、本当に"逢"・"寝"に絡む実質的効用を持つなら」の意味を表わす:「
逢坂山・・・逢=愛する人との
逢瀬」・「サネ・・・寝=愛する人との
共寝」と、艶っぽい「
掛詞」で遊んでいる訳である。
「さねかづら」は
蔓の絡まる植物であるから、そのクルクル巻いたツルを「
繰る・・・手でたぐり寄せる」の意味とつながりが深い:この「くる」が、「(人に知られで)来る」という第四句との同音のよしみをもって間接的連想の関係(=「
縁語」)でつながり、これを導く「
序詞」としての意味を第一・二・三句(名にし負はば
逢坂山のさねかづら)に与えている訳である。
「人に知られでくる(操る/来る)
由もがな=人知れず愛の糸をたぐり寄せるようにして来訪する手段があればいいのになぁ」と希望するからには、現実には「
愛しい人との
共寝含みの
逢瀬を楽しむために来訪したい・・・のだが・・・人目がうるさくてなかなかうまく行かない」という事態が想定されるところである・・・が、このあたりの「人目を忍ぶ恋」というような事情は、この歌を収めた『
後撰集』(950年代に成立)の「
詞書」には特に書かれておらず、「女のもとにつかはしける」というまるで無意味な
蛇足が付いているだけ(この程度の事情、どんな貧弱な想像力の読み手でも考え付くではないか!)。
そもそも、現存する『
後撰集』は、正規版が宮中の火事で焼失したためにやむなく
流布した下書き版であるとの説が根強く、この無意味極まる「女のもとにつかはしける」も、編集段階での編者の誰かの適当な思い付きで書かれただけの走り書きの色彩が濃密であり、全く
鵜呑みに出来ない(・・・これは何も『
後撰集』のみに限ったことではなく、和歌の「
詞書」は、
余程個別的な事情を書き添えたものでない限り、編者の
恣意の垂れ流しに過ぎぬもの、と疑ってかかる必要があるもの/詩的に
無粋な差し出口ならば読み手として平然と無視する権利があるもの/詩の解釈上の絶対的な前提条件を成すものでは決してないもの、なのである)。そういう訳で、この歌は、「忍ぶ恋」というような特定状況に絡むものではないようである。
そう考えるとこの「人に知られで」の部分は、「くるよしもがな」に添えるのに適当な響きを持った文句を「口から
出任せ」に詠んだだけの、平安前期の短歌によくある「
僧正遍昭的なコトバの一人歩き」として受け流してよいのかも、という気になってくる・・・が、それではあまりに面白くないし、作者に対しても礼を失することになる・・・ので、ここはもう一ひねり、
新手の解釈が欲しいところ・・・では、次のような読み解き方はどうであろうか。
この歌は、「逢いたいが、人目があって逢えない
愛しい女性に贈った歌」ではなく、逆に、恋人とは既に逢い、
共寝も遂げて、愛に満ちた幸福な
余韻に浸っているところに、ばったりと知り合いの誰かに出くわしてしまい、「あちゃー!こんなとこでこんなやつに会うか、フツー?!」という状況下で、照れ隠しに
詠まれた歌、と解釈するのである・・・
逢い引きの愛の
余韻をブチ壊す
野次馬EYEの
世(夜)になくもがな・・・これなら話は多少面白かろう?(『
後撰集』の「
詞書」にそうした事情を書いていないからという非文学的な理由でこの解釈を否定するような
御仁とは、この種の話は最初から成立しないし、筆者もそんな連中に語りかけるつもりはない・・・どだい、これが実情だったとして、そんなこと「
詞書」にどう書くというのか?どう書いても
無粋になるであろう:なら、何も書くまい?何も書いていなければその状況は存在しなかったことになるのか?・・・そうした逆発想の感性が鈍い人との間には、文学談義はもとより不成立なのである)。現実的にそうしたドギマギ状況にちょくちょく見舞われたであろう平安期の貴人男子の、
雅びなる
逃げ口上として普遍的な意味を持ち得る歌だからこそ、貴族の日常的な軽い
挨拶代わりの歌の応答(
所謂「晴れ」の歌ならぬ「
褻」の歌)を数多く含む『
後撰集』に組み入れられた歌、と見れば、その味わいは(単なる「女のもとにつかはしける」歌よりは)深くなるように(この筆者には)思われるのだ。現代的脈絡でシミュレートすれば、歓楽街の裏通りの駐車場の出口に
昆布が干してあるちっちゃな
お城みたいな造りの建物の中から彼女と二人出てきた男の視線の先に、よりにもよってモテない悪友の目があった時、バツが悪そうに
呟く「
逢坂山のさねかづら(・・・どうか人には言いふらさんといて)」みたいなお茶目な歌、と思えば、平成日本の男子諸君にとっても親しみが沸く歌ではあろう?
何にせよ、「
掛詞」・「
縁語」・「
序詞」・「
歌枕」という見た目の修辞法の豊富さに引かれて、高校生の教材用として教室で引き合いに出したりすると、何かと厄介な歌ではある・・・ように思われるので、上記の筆者独自の解釈に不賛同の面々も、この歌に関してはなまじ人前で講釈垂れぬ方が無難であろう・・・この歌を口ずさむ場面では、相手は一人(その場には三人)、そんな艶っぽさが
言外に漂う歌(・・・として見ぬことには何の
面白味もない歌)ではあった。
作者藤原
定方については、特筆すべき事は特にない。『
古今和歌集』(この人の歌は一首のみ入集)の時期に最高位右大臣(従二位)まで出世した貴人で、邸宅が京都の三条にあったことから「三条右大臣」と呼ばれた、というプロフィールが残るぐらいである。「
詞書」同様、「
詠み手の履歴」が歌の解釈に於いて意味を成すのは
余程特別な場合のみであって、この人/歌はそうした特別なものではないのだ・・・まぁ、
強いて付言するなら、『
古今集』編者達が、しばしばこの三条右大臣とその従兄弟である藤原
兼輔(
第27番歌作者で、通称「
堤中納言」・・・と言っても平安末の説話物語とは無関係)の邸宅に集まって歌を詠んでいた(彼らは当時の歌壇サロンのパトロン的存在と言えなくもない)ということぐらいであろうか。