解題
「
由良の門」とは、京都北部を流れる
由良川が、京都と福井の海岸線が日本海に深く入り組んで出来た
若狭湾へと注ぐところで、極端に狭くなっている(門戸状になっている)場所、つまりは「
由良海峡」である。海峡付近は潮の流れが速く、変則である上に、川幅も狭い。そんな場所で、「舟人」が船の方向性を決める「
舵」を失ったら、船はもう潮のなすがまま、「ゆくへも知らぬ」まま、どこへ流れ着くかわからない。そういう危険な舟の状態にも似た危うさを秘めた「恋の道」に、自分は既にもう踏み込んでいるなぁ、という歌である。
「かぢをたへ」の部分は、これを「
梶緒絶え」と読む説と「
梶を絶え」とする説とがある。前者なら、何と言うこともない:「
梶緒」とは「船の
操舵装置=
梶」を船の本体へと結び付ける「緒=縄・綱」の意味であるから、「
梶緒絶え=
舵をつないだロープが切れる」の意味にすんなり落ち着くだけである。一方、「
梶を絶え」だと、中間の「を」は間投助詞(詠嘆)となる。一見格助詞になりそうだが、「絶ゆ」は自動詞(切れる)であって他動詞(切る)ではない:海峡の入口で自ら進んで「船の
舵をつなぐロープを"切る"」ような自殺行為はしないのだから、他動詞として主語を目的語につなぐ働きの格助詞としての「を」という解釈は成立しないのである。すると、この「(間投助詞としての)を」が、今度は、「(ロープの意味の名詞の)
緒」と同音のよしみでつながり、後者を介して前者を「絶え(=切れる)」とつながりの深い(しかし直接にはつながらない)「
縁語」の関係で結ぶ、という修辞が見えてくる。「
梶緒」として解釈した場合はこの
縁語関係は生じない:「
梶をつなぐ
緒(ロープ)」と「絶え」とは、直接的な主語―述語関係でつながってしまい、イメージ連想としての間接的つながりにはならないから、である。
この歌の意味の本筋は、第四・五句の「
行く方も知らぬ恋の道かな」にあり、それ以前の句はこの意味の本流を導き出すための
伏流、つまりは「
序詞」である・・・が、しかし単なる「後続部の誘い水」として流してしまうには、「
由良の門を渡る舟人
梶緒(を)絶え」のイメージは実に強烈で、
途方に暮れる舟人の顔や、飛び散る波しぶきの音まで、視覚的・聴覚的刺激となって、読む者の眼前に浮かんでくるようだ。
こうしたイメージ
訴求力の高さをもって、「
序詞」それ自体が、後に続く意味の中核とは別に、歌全体の中で独立した重みを持つ「叙景パート」としての輝きを放つような歌をこそ、『
小倉百人一首』撰者の
藤原定家は「
序詞歌の理想形」としていたのである。彼自身の晩年の自讃歌である
第97番歌「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや
藻塩の身も焦がれつつ」もそういう性質の歌であり、「
序詞の映像性」が、後続の意味の主要部「身も焦がれつつ」にまで及んでいる。『
小倉百人一首』全体の中に「
序詞」含みの歌が占める比率が実に19首というその数字自体、定家がこの修辞法を
如何に重視していたかを物語っているし、この46番から51番までの6首のうち、実に4首(46・48・49・51)が「
序詞歌」だという事実にも、偶然以上の定家の意図が感じられないでもない。
この歌の作者
曽禰好忠は、平安中期の人であるが、「
丹後掾」という
卑官の地方役人であったらしい、という以外の経歴は不詳で、生没年も不明。「古今調」への
アンチテーゼの
如き奇抜な題材を歌にしたり、当時『
後撰集』編纂と同時に研究が進められていた『
万葉集』(759頃)の古語を織り込むなどして、和歌の世界に新風を吹き込もうとした彼は、
後代になって評価された:この歌を収めているのも鎌倉初期の『
新古今和歌集』(1210年代成立)である・・・が、存命当時の歌壇に於いては異端的存在だったらしく、貴人どうしの集う歌会などには縁がなかった人のようである。いつの世でも革新者とはそういうものであるし、また、この頃の平安の世には既に、「
際は際」(人はみな、その
分際に応じた存在でしかないし、
分際を
弁えての振る舞い・付き合いに徹するべきだ)という階層意識が色濃く漂い始めていた:社会の安定期の好ましからざる副産物である。こうした世にあって「我が世の春」を
謳歌する既得権益受益層(貴人連中)にとっては、「
下賤の者の
分際で」実力が高い者など(前衛歌人にせよ、頭脳
明晰なる官僚にせよ)、自分達の存立基盤を
蝕むシロアリか
癌細胞のようなもの、
目の敵にされるのが当然の存在だったのである。そうした批判的鑑識眼を持って
眺めれば、
巷間語り伝えられる出世物語の中で「
面歌」(上位の者の歓心や世間の評判を得るきっかけになった出世作)として
持て囃されている短歌には、「
斬新な芸術美」を讃えられるような作品は
殆ど皆無、あってせいぜい「伝統美の七光り」、「上司が喜ぶ(&上司でもわかる)程度の小技巧の冴え」、というのが現実。出世手段としての和歌の効用を説く「歌徳説話」向けの短歌と、『
小倉百人一首』に収められるような秀歌とは、役者が違うばかりでなく、求めるもの自体が違うのである。
曽禰好忠はまた、個々の歌の「詠みぶり」のみならず、歌の「詠み方・読ませ方」に於いても、新機軸を打ち出した人であった。彼の個人歌集『
曾丹集』("曾"は"曽禰"の"曾"/"丹"は"
丹後掾"の"丹")の中にある「
百ちの歌」(960)は、(一人または複数歌人の歌を100首集めた)「百首歌」の走りであり、一年(今とは違い)360日ということで360首の歌を収めた「
毎月集」なるものも作っている・・・どうやら
好忠は多作の人であったようだが、当時としてはこれも"奇抜性のみを狙った
粗製濫造のスタンドプレー"の
謗りを受けたかもしれない。
しかし、以後
次第に和歌の世界に於いては、歌人の修練の意味も込めてこの「百首歌」が盛んに行なわれるようになる・・・なんとなく、野球の世界の"千本ノック"めいた話ではある。
中世以降になると、「百首歌」は、当代の主要歌人の歌を
勅撰和歌集に収録する際の"書類選考"用資料として提出を要求されることも多かったようである。
詠む方はともかく(歌なんて出てくる時は一日十首ぐらい軽く詠める)、読まされる方は大変だったろう:一人百首の
履歴書が、何百通も送られて来るのだから・・・これでは、勢い、「既に自分もよく知っているあの人のあの歌」へと、最初から
見ずテンで決め打ちして逃げ込みたくもなろうというものだ・・・中世以降の
勅撰集の、流派集束性の一因がこれ、とは言わないが、出すだけ出しておいて提出されてもロクに見もせぬ無礼・無責任な宿題(学校のみに限った話ではない)という日本国の伝統芸の腐った根っこが見え隠れする話ではある。
また、寺社への寄進としての「百首歌」というのが
流行るのも中世以降・・・こうした場合、中身は問題ではない:「有名なあの人の歌(書・字・絵・手形・足形・おことば・お下がり・食べ残し・着古し・墓石・etc,etc...)」という形ばかりの
有難味を求める無節操なるファン心理への迎合手段・
形骸化した
御挨拶の一つにまで、和歌を
貶めてしまっても平気な時代が、中世だったということである:「
鰯の頭も信心から」であるから、そうした「寺社に供えの百首歌」を有り難がるのは勝手だが、そこに
真摯なる文芸の輝きを求めても
詮無きこと、あるのはただ
乾涸らびた魚の骨みたいなつぎはぎ言葉の寄せ集めでしかない。