解題
一人ぼっちの時には、大した重みを感じなかった自分の存在。誰かに出会って、その人のことを
心底思うようになると、しがない自分の人生なんて、軽ーくその人のためだけに全部捧げてしまえる気分になる・・・だって、一人じゃ重みがないんだもの。
そうして、想いが
叶って、その人と結ばれて二人で歩むようになると、途端に重みが増す不思議・・・いや、不思議でも何でもないか、今まではゼロだったものが、いきなりダブルにアップするのだから・・・で、途端に失うのが惜しくなる:重ーい自分の生命も、大事な二人の人生も。
人は、そうして、人生を、生命を、
慈しむことを知るのでしょう。
自分の存在が軽すぎて、もう嫌、こんなの投げ出したい、と思う時は、投げ出した自分の人生を受け止めてくれる誰かを探しましょう。その人が、きっと、あなたを生かしてくれる人、生きているって幸せだな、と思わせてくれる人だろうから。
「命」を巡る形容詞成文の
錯綜(共通)構造がこの歌の生命力となっています。「(たとえ無意味に散らしても)惜しからざりし命」と
投げ遣りに生きていた人が、恋をして、「(この人のために捨てるのなら)惜しからざりし命」と思うようになり、やがてその恋が
成就して「(この人と一緒に暮らす幸せな)命」なら「長くもがな(長続きしますように)」と、命を
愛おしむようになる・・・図式で書くと矛盾しているようだけど、命懸けのひたむきさで何かに向かった後で、改めて命の重さを感じることって、いろいろあると思います。最初から
後生大事に抱え込んで長持ちさせることだけ考えている命には、決して宿らぬ真剣な重みを、一度は捨ててかかった命が長らえた先の人生の中に、見事に宿している人って、やはり魅力的・・・でしょう?
その魅力的な歌を詠んだ藤原
義孝という人、現実には、21歳の若さで死んでしまいます。死因は
天然痘。美貌で知られた貴公子で、
天然痘で顔に醜い傷跡ができたのを苦に自殺した、との説もあります(・・・この歌を見た後では信じたくない風説ですけど)。『
大鏡』によれば、朝には兄の藤原
挙賢が同じく
天然痘で死に、同じ日の夕方に弟
義孝が死んだそうです。彼らの父は藤原
伊尹(
45番歌「あはれとも言ふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな」の作者)で、彼らの死の2年前に死んでいます。
こんな若さで死んで、この素敵な歌だけが後の世への
忘れ形見?と思うと哀しい気持ちになりますが、
義孝さん、ちゃんと一人息子を
遺していまして、その人の名は
藤原行成。当代屈指の
能筆家として、
小野道風・
藤原佐理と並ぶ「
三蹟」の一人に数えられ、日本文芸史に
燦然たる名を残しています・・・なんか、ほっとしますね・・・あ、一番気になる人を紹介し忘れてました:
義孝さんの奥様は「
源保光女」・・・彼女がこの歌の「君」か
否かは、各人の想像に
委ねるしかないのですが・・・。