解題
「あらざらむこの世のほか」は、「世」の解釈
次第で「私がもう生きていないであろうこの世の外」/「もう終わってしまうであろうこの恋愛関係の果て」の両用の解釈ができます。末尾の「もがな」は願望で、「思い出にもう一度だけ会いたい」というのですが、会いたい相手は、「死別/失恋」いずれの解釈であるにせよ、「もうすぐお別れの私の大事な人」。
作者
和泉式部は和歌の天才。何の
躊躇いもなく日本文学史上最高の詩人と(
私的には)断言できる天性の言葉の魔術師。同時代に同じ
中宮彰子の下で
宮仕えしていた紫式部が(
誹謗と
羨望を交えつつ)評するが
如く「あれこれ考えるまでもなく、すらすらと口から
出任せに歌を詠んじゃうタイプの人」(『紫式部日記』より)。『
古今集』「
仮名序」で
紀貫之から同様の批判を受けていた「
僧正遍昭(
良岑宗貞)」の数十倍も巧みで流麗な和歌のオルゴールみたいな口を持っていた女性・・・なので、この歌も、実際の別れのシーンで出た心の叫びなのか、「疑似
悲恋の詩」として出てきたものなのかわからない・・・ましてや、下手な注釈書によくあるような「彼女の死に際に詠んだもの」である
筈もない。古語の「世」には、「世界」だの「人生」だの以外に「恋愛」の意がある訳で、「この世のほか」は「私が死んだ後」よりも「私たちの恋愛が果てた後」と見るのがやはり自然でしょう。史実から言えば、
和泉式部の記録の最後は彼女が五十歳頃に途絶えていて、その最期に「死んだ後の思い出に恋人と逢いたい」として詠んだ歌とするのは、多情な彼女の人生を思っても、やはり無理があると思います。
いずれにせよとにかくこれ、彼女の歌としては
凡庸で、言葉の
綾も
妖艶な情感も希薄で、秀作の部類にもまるで入らない歌(と、私は思う)・・・そんな歌を
敢えて『百人一首』に選んだ
藤原定家さん、ひょっとして彼女の天才ぶりに、同じ歌人として、
嫉妬していたのかな?
和泉は恋多き女として知られ、十八歳で最初に
嫁いだ
橘道貞(「
和泉式部」の名は彼の
国司としての任国が「
和泉」だったことに由来)との間に一人娘
小式部内侍を
儲ける(二十歳)も後に離婚、二十二~二十四歳頃には
冷泉天皇の第三
皇子為尊親王と恋愛関係になり、この身分違いの恋愛を理由に親(
大江雅致)から
勘当されるも、当の
為尊親王は彼女が二十五歳の時に死去。翌年にはその弟の
敦道親王に求愛されて宮邸に入り、
正妃が宮邸を去る原因を作る、等すったもんだあった末に、親王との間に一人息子(
永覚)を
儲けるも、和泉三十歳の時に親王が死に、宮邸を去った和泉は、三十二歳の時に
道長に請われて
彰子サロン入り(紫式部
出仕の四年後)、三十九歳で藤原
道長の
家司(で武勇の人)
藤原保昌と結婚、四十三歳の時に夫の任国
丹後に
下向、四十八歳の時に娘
小式部内侍に先立たれ、五十歳の時(藤原
道長の没年)以降の消息は不明・・・と、まさに
波瀾万丈の人生を送った彼女の歌人としての名声は、生前も(スキャンダルにもかかわらず)それなり以上に高かったのだけれど、恋多き女として生身の彼女を見る
色眼鏡に文芸的判断を惑わされることがなくなった死後の方が、彼女の和歌への評価は
遙かに高く、
勅撰和歌集への入集総数は二百四十六首を数える・・・無論、彼女の
真骨頂はそんな統計上の数字にあるわけではなく、その歌に詠み込まれた情感にこそあるのだけれども・・・とにかく、この凡作に近い56番歌でしか和泉を知らぬ日本人は ― はっきり言います ― 大損してます。本当の和泉は、もっともっと、すごい歌たくさーん詠んでますから。