解題
「
恨みわび干さぬ袖」とは、薄情な人への
恨みに心が沈み、絶えず流れる涙で、着物の袖が乾く暇もない、という意味。
そんな風に、つれない相手の薄情さに泣き濡れているのが現実だというのに、実はありもしない恋の噂だけは立ち、根も葉もないその浮き名のために、自分の評判も朽ちてしまうのが、惜しい・・・というのであるが、逆読みすれば、「
花も実もある恋の果て」になら、恋の浮き名で朽ちてもよい・・・のかもしれない。
そう感じさせるのは、「恋に朽ちなむ
名"こそ"惜し"けれ"(評判ばかりの恋で名を落とすのはイヤ)」の係り結びの微妙な効用・・・鋭い感性にかかれば、「恋に朽ちなむ
身"やは"惜しま"
む"(生身の恋の果てになら、身を持ち崩すのをどうして惜しむものですか)」と二重写しになる表現なのである。
この歌の「
朽つ」の主語は「名」であるが、第二句「干さぬ袖」から浮かぶ「乾くことなく常にびしょ濡れ」のイメージに結び付けて考えれば、「袖」(が、湿度の高さ
故に)「
朽つ」(=カビが生える)の関係を「
縁語」として指摘することも(あまり詩的に美しくはないが)可能かもしれない。
だが、これは、そうした技巧で引っ張る歌ではない。浮かび上がる情念で人の心に染み入る歌である。『永承六年
内裏歌合』での題詠歌ではあるが、心情が本物なら、詠歌事情の架空性など問題ではない。むしろ、
如何なる状況にも縛られず、思い思いにこの主人公の置かれた立場を想像し当てはめて解釈してよい自由を与えてくれる点で、「題詠」は正の効用を持つのである。
「こないだまで付き合ってて、別れたばかりの彼氏・・・そんな事情も知らないで・・・」という歌かもしれないし、「人前でいかにもそれらしくちょっかい出してきて、噂だけ立てて、後は何にもしない人」を恨んでいるのかもしれない。あるいは「ただ"恋多き女"というイメージだけが一人歩きして、私、そんなにふしだらな女じゃないのに・・・世間は何にもわかってくれない。これじゃ、男も、寄り付かない・・・彼氏もいない悲しい私に、"浮き名"ばかりが付きまとう」という展開だって、あり得るのだ。
想像の翼を広げて
文物の世界に遊ぶ愉悦を知る者は、こうした解釈の自由度を喜ぶ。想像力と知的勤勉性に欠ける者は、枠にはまった単一の解釈以外と広く付き合う余力もない。そうした後者が、作るのである:「"多情"の噂ゆえに、
恨み侘び干さぬ袖抱えて、一人寂しく生きる女」を。
この歌の作者も、そうした女性の一人だったかもしれない・・・。
作者の
相模(998?-1061)は、"恋多き女"、"情熱の女流歌人"として、日本の文芸界では(
案の定)有名な人。20代前半に最初の夫
大江公資の妻となり、彼の任地「
相模」が彼女の女房名となるが、この結婚生活は数年で
破綻。
寡婦となった彼女に熱心に求婚した男としては、藤原
定頼(
第64番歌作者。藤原
公任の
嫡男)の名が挙がるほか、幾人もの男性との関係を
取り沙汰されている女性である。
女房としては、一条天皇(66代)と
中宮定子の長女
脩子内親王に
出仕、その死後は
後朱雀天皇(69代)の
皇女祐子内親王に
出仕。更に
次代の
後冷泉天皇(70代)の時代まで、幾多の
歌合せに参加し、名高き歌の名手として歌壇に君臨、後進の指導にも功績があったとされる。
"宮廷
出仕"→"幾多の歌を
詠む"→"多くの男性との応答歌あり"+"二十代前半で離婚経験あり"→"恋多き女"・・・
和泉式部のパターンとそっくり同じ「恋に朽ちなむ名」の立ち方の、ジャパネスク方程式がそこにある・・・生身の彼女が実際にそんな多くの恋をしたのか、そんなに恋したくなるほどのイイ女だったのか・・・そのあたりの空想の自由もまた、我々のものである;が、独自解釈を万人に押し付ける自由は、誰にもない・・・ましてや、彼女の名を「恋に朽ちさす」権利も、ない・・・解らぬ人には、わかるまい。わかる人だけ、付き合えばいい ― 彼女らのようなイイ女と、生身ならざる想像の
逢瀬で。歌とは、そういうものである。