直接体験過去の【き】&英語仮定法過去・過去完了に見る視点の相違(「みやり」vs.「みおこし」論)

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

 古文業界でよく語られる事柄として、<【けり】は他者から聞いた伝聞としての過去><【き】は自ら体験した直接体験としての過去>という区分がある。「き」・「けり」の助動詞としての特性の一部を捉えた言い方としては正しいが、その「直接体験」を語る主体の取り違えが起こり易いので、簡単に注意を促しておこう。
 この場合参考になるのは、現代日本語ではなく、英語の「仮定法過去」/「仮定法過去完了」の区分である。
英文例1)He speaks as if he <knew> everything about English grammar.
和訳例1)彼は(現時点に於いて)まるで英文法の全てを知っているかのごとき口をきく。
・・・「現在」の時点の「反実仮想」だから「直説法現在」より1つ時制をらせての「仮定法過去」という絡繰り;この程度の文章なら、多少不勉強な日本人学習者でも間違いは犯さない。
・・・ところが、上と同じ意味内容を「過去」の時点に置き換えただけで、ほぼ100%の日本人がコケるのだ:

英文例2・・・まちがい!)He spoke as if he <had known> everything about English grammar.
・・・どこが間違いか、おわかりか?まぁ、こう改めて問われれば、間違い可能性のある箇所はたった一つしかあるまい ― <he had known>がダメなのである。正しくは以下のごとし:
英文例3・・・正解)He spoke as if he <knew> everything about English grammar.
 「過去の反実仮想は、仮定法過去完了」/「現在の反実仮想は、仮定法過去」という字面通りの覚え方しかしていない日本人は、次のような短絡解釈の図式に陥る:
1)「He spoke」の表現を見て「過去だ」と思う・・・これは、正しい。
2)「as if…」以降は「反実仮想だ・・・現実にはそうではないことを、まるで・・・かのようだ、として語っている」と思う・・・これもまた、正しい。問題は、次の場面である:
3)「he spoke」以降の<he knew>は、「過去」の「反実仮想」なのだから、「仮定法過去完了」にしなければいけない=<he had known>でなければいけない・・・これが、いけない;「目の付け所=時制判断の基準点」が間違っているのである。
 つまり、日本人は(上述の如き英文法に熟達した者以外は100%例外なく)「読んでいる自分自身が身を置く時点=現在」を基点に全てを捉えているのである。これは『扶桑語り』の中で幾度となく指摘してきた事実であるが、「日本人は西欧言語的な意味での時制意識(過去/現在/未来)を持たず、自らの意識の中では全ての事象を現在として捉えている=自分自身が身を置いている時点があらゆる認識・描写の基点である」という言語学的体質が、そのまま露呈したJapanese fallacy(日本人ならではの誤謬:正しいつもりで実は間違い)と言えるであろう。

 一方、英語人種の場合、日本人とは目の付け所が違う ― 上の英文例3)がそれを明確に示しているので、両者を対比して眺めてみよう:
(×)日本人的考え方)「He spoke:彼は、話した」を見て「"話した"のなら、今の自分から見て、過去」として時制を固定してしまうので、後続の「as if he knew」を「反実仮想の仮定法」に直す作業に於いても「過去の時点の反実仮想=仮定法過去完了=as if he had known」としてしまう。
(○)英語人種の考え方)「He spoke:彼は、話した」を見て「彼が話しているその時点」へと「自分自身の視点」を移し替える。「読者としての(現在に身を置く)自分」から見ればそれは「過去」だが、「He」の立場から見ればその「過去」が彼にとっての「現在」となる、という点を自然に認識しているのが英語人種である。その「彼にとっての現在」の時点で「反実仮想の仮定法」にするのであるから、時制は「仮定法過去」であって「仮定法過去完了」ではない。
 日本人英語学習者で、上のような「仮定法の時制判断に於ける正しい視点」を有している者は、驚くべきほどに(or絶望の溜息をつきたくなるほどに)少ない・・・その根底には「自分が身を置くところこそがすべての中心」という「現在(or自分の立場)のみに固着した視点」があることは言語学的に間違いのないところである(社会学的にも、と言いたいところだが、これは少々由々しき言辞ともなるので、そのあたりの判断は読者各自の賢慮に委ねよう)。
 古語で言えば、英語人種は「見遣り(みやり)=相手の立場へと自分の心的自我を重ね合わせて物事を見る」のが上手だが、日本人は「見遣し(みおこし)=自分は一歩も動かずに、自分の見方だけから世界を見、他者が自分に合わせて動いてくれるのを期待(or強要)する」体質がデフォルト(default=何らの改変をも加えぬ初期状態)に於いて根強い、ということになろう。このあたり(日本語以外何も言葉を知らぬ日本人には当然認識不可能な図式だが)、英語なり古語なりの「外国語の鏡」に照らし出してみた時の「醜悪なる日本人性」の一つと言わざるを得まい・・・そこに気付いた人ならば、「より美しい自分自身」を模索して動かざるを得なくなるのは間違いなく、このあたりにこそ「外国語の1つも知らぬ者は野蛮人」という西欧的wisdom(英知)が存するのである。
 似たような感じで、日本の古語に於ける「き」の「直接体験過去」もまた、「読者」だの「筆者」だのの固定した視点から見れば「間接体験過去=けり」になりそうなところを、「作中人物」の視点から見れば「直接体験過去=その人物自身が体験したものとして語る"き"」になっている、という例が結構多いものである。
物語中の客観過去「けり」でなく、作中人物の主観過去「き」が見られる『扶桑語り』「ゆめにねぶるむすめ」の一節)
をのこたち、このむすめのもとよりあいぎやうづき、おひさきみえ<し>かたちありさまをしのびて、まなぶにかこちておとなひつるに、かくてそのざえいやまさり、ふみめづるさがいとどしくなりぬれば、いよいよねびまさりゆくけしきはさるものにて、なまじひにものがたりにことづけてまゐりてさかしだつもあやなからむとためらはれ、とぶらふこともおとりもてゆく。
現代語訳)男子たちは、この娘の、昔からかわいらしくて将来美人になりそうな容貌って、学習を口実にこれまでは訪問してきたわけだったが、こうしてその学才が更に一層優秀になり、ただでさえ強かった書物を愛好する生来の性質がますます大変なことになってしまったので、成長するにつれていよいよ美しくなってゆく彼女の表情に気後れするのはもちろんのこと、なまじっか物語にかこつけて参上しては賢そうに振る舞うのも無意味なことだろう、と思わず躊躇してしまい、娘のもとを訪れる機会もだんだんに減ってゆく。
 「をのこたち」と最初に断わってある通り、この部分は「筆者による昔語り」というよりも「作中人物である男子たちの立場から見た(主人公の少女に対する)過去の感覚」なので、「おひさきみえ<ける>」ではなく「おひさきみえ<し>」なわけである。
 このあたりの「主体に関する視点移動」が、『源氏物語』あたりの頃の平安人たちには(文物から類推する限り)きちんとあったが、現代日本人にはまるでない。平安文法には存在した「完了形」も現代和語には跡形もない。これらの諸点から判断するに、平安時代の日本人は(現代倭人よりも遙かに)英語ができるようになる適性に恵まれていたと言えるだろう・・・逆言すれば、現代受験生に関しても、英語がきちんと出来る人間でないと平安時代の古典文法に対しては「しったかぶり(=痴れた頭・・・×知ったか振り)」の仏頂面鉄面皮を通しての曲解に終始することになる確率が高い、ということになるだろう。
 最後に、次のように「過去完了」が妥当な例をも紹介しておくので、何故その時制が正しいか(「視点」という観点から)じっくり考え確認してみていただきたい:

英文例4)He spoke as if he <had known> everything about English grammar even before he went to high school.
和訳例4)彼は、高校進学前から英文法の全てを知っていたかのような口ぶりだった。

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