仏教説話は断定的「なりき」

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

 直接体験過去の助動詞と呼ばれる「き」は、自分自身が直接体験したものとしての過去を指すものとされるため、物語の記述の中では、伝聞過去と呼ばれる「けり」が多用される。
 しかし、この「けり」にはまた、自身が直接体験したもの・間接的に知っているものを問わず、発話時点で今更のように認識を新たにした過去の事柄について、ある種の感慨を込めて言う「あぁ、・・・だったんだねぇ」という用法、俗に言う「気付きのけり」というものがある。その詠嘆的響きは、現代でもなお俳句の末尾によく用いられていることからも感覚的にわかるであろう。
 こうした柔和な「けり」の響きが嫌だから、という、基本的にはただそれだけの理由から、中世以降の仏教説話などでは、本来なら「けり」を使うべき伝聞過去の文脈でさえも、断定口調を演出するためだけに「き」を用いる、という荒技に出るのが、日本の文法のユルいところである。平安期も終わり、鎌倉期に入ると、それぐらい「き」と「けり」の区分そのものがあやふやになっていた、という事実の証拠でもある。鎌倉期も終わり室町時代に入る直前に世に出た吉田兼好の『徒然草』は、殺伐とした武家の世を嫌い、古き良き世としての中古の文体を模した擬古文調で書かれているにもかかわらず、平安文法の厳密な使い分けからすれば疑問符の付くような「き」と「けり」の使い方をも当然のごとく含んでいる。
 そのように、文法の基本線からして既に崩れていた時代には、書き手の身勝手な思惑から、事実性の演出のための「き」などという現象も起こったのだ・・・これまた日本語・日本人の法意識のあやふやさを思い知らされる無数の事例の一つ「なりき」というべきか。
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