【為す・成す】を蔑み、【成る】を喜ぶ御公家さん

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

 「作為」・「人為」と書けばその「自然ならざる強引さ」が際立ち、「成す・做す」とすればその「本来違うものへと作り替える身勝手さ」が目立つ・・・という具合に、平安時代の古代人にとって好ましからざる意志性の強さを感じさせる古語が「なす」であり、その対極に位置するのが「なる(成る・生る)」なのであった。
 「なす」と「なる」に共通する「な」の字は「生」であり、その意味は「発生」である。英語で言えば「happen」であって、事態の成立を巡る語である点では「なす」も「なる」も変わらない。唯一変わるのは「す」と「る」の違いである・・・こう書けばもうわかるであろう:使役の助動詞「す」と自発助動詞「る」の相違が、意志に裏打ちされた行為である「なす=someone makes things happen」と、自然的出来事としての「なる=things just happen」の違いなのである。
 が、「原因なくして現象なし」の自然界の法則に照らして、事がただ「なる」道理もない。それが「成る」ためには、それを「為す」べく意志的に動いた何者かの営為があったはずなのだ・・・が、平安時代の貴人たちは、そうした「陰ながらの営為」を評価しない:評価せぬどころか「直視しようとしない」のだ。
 「もののふ」なる言葉がある。「サムライ」なる語を「古き良き日本の素晴らしき男の生き様」などと錯覚して振り回す皮相的言語感覚の現代日本人の貧弱な語彙からは外れる可能性の高い語なので補足説明しておけば、これは「武士」の同義語(表記上も「武士」と書いて「もののふ」と読むことがある)。本来は「もののふ=物部」であって、「もののべ」とは読めても「ぶし・さむらい」とは読めないのだから、「武士」と書いての「もののふ」読みなどは完全なる当て字である;が、「物部・侍・武士」のいずれも、その表わすところは一緒、ということで、日本語の場合、こうした横滑り語も十分、あり、なのである。
 さて、その「もののふ=物部」は、古代律令国家時代の日本にあって、「軍事・警察・司法」に携わった部民(べみん)の階級名である:中古末期以降、これが「侍」の職務となることは言うまでもない。「軍隊」は、武力をもって敵と戦い、これを殺す(&しばしば殺される)のが仕事であるから、お高くとまった貴人が自らこれに加わることはない。「司法」と言えば昨今の弁護士あたりの高給取りを思い浮かべて聞こえが良いが、「罪人の懲罰」もまたその管轄であり、血塗られた「死罪」を執行する仕事をも含むのだから、貴人にはこれまた縁遠い(というか、遠ざけたい)世界の話である。「警察」が罪人との日常的関わりの中で汚れ仕事を一手に引き受けるものであるのは古今変わらぬ事実であって、そんな「Dirty Harry:ダーティー・ハリー」的仕事を貴人が喜ぶ道理もない・・・いずれ劣らぬ「血のれ」にまつわるこうした仕事を、古代の貴人は、自ら引き受けることはおろか、まともに口に乗せることさえも「汚らわしい!」としてはばかったのである:その結果生まれた呼び名が「もののべ」であった。
 「部」の付く部民は職能に応じてその名が決まり、「服飾関係」の「服部(はとりべ)」、「土器製作関係」の「土師部(はじべ)」などがある中で、「血塗られた部民」たる「軍事・警察・懲罰部門担当一族」は「いくさべ」だの「とらへべ」だの「くびきりべ」だのの具体的な呼び名で呼ばれることはなかった:その「れた仕事」への直接的言及を回避して「例の...系担当の連中」という持って回った言い回しで呼ばれたのだ ― 「モノの部」なる呼び名の誕生である。
 「らわしい」と感じたが最後、自らが直接関与するのはおろか、その行為に言及することすらも徹底的に拒否する、古い時代の(と必ずしも限ったことではないが)日本人の黙殺態度を、この「もののべ」なる語は如実に示している・・・が、そうして貴人が目を背けようとも、現実に「軍事・警察・刑罰」の必要性はあるのであって、それを「なす」人々の陰ながらの努力あってこそ、事は「なる」のである。が、貴人連中にとっては「なる」だけがあって、「なす」は、ないのである・・・この意識、果たして平安時代の貴族連中だけに固有のものであろうか?
 「もの」として曖昧にぼかされた例には、「おもの=貴人の食べ物」なる古語もある。加工過程で生き物を殺して切り刻んだりのやいのやいのの"汚らわしい"行為が入る以上、「食事」は「なるもの」であって「なすもの」であってはならない、というのが貴人意識であって、自ら料理の腕をふるったりするなどもってのほか、おひつからおわんに自らの手でごはんを盛ること自体が「あらら・・・」の斜め目線で蔑視されたのが古典時代の日本なのである・・・この「手盛り」や「手酌」を嫌い、「おや、これは失礼。言ってくれればこちらで盛り/注ぎましたのに」などと言って「相手に直接行動を取らせない=なす、を嫌って、なる、ようにする」行動は、現代日本の宴席の座にもなおしぶとく(「正しき作法」の名のもとに)居座っている・・・が、その「正しき来歴」を踏まえている日本人は、ほとんど存在せぬようである:知っておれば、この「汚らわしき主体性忌避体質」なる「汚らわしき偉ぶり意識」を、いかな鉄面皮の日本人とて、尊重できる道理がないのだから。
 もっとも、こうした古典的事情を、「宴席のマナー」とやらをしたり顔して強要する日本人相手に教え諭すように教示するのは、やめておいたほうがよい...連中にとって「そう"なって"いる事」は (その来歴がどうであれ)絶対なのである ― 舞台裏の事情など決して見ようとせぬ平安調日本人の正統なる末裔だけに、「なる > なす」の図式は彼らの心理に於いても揺るぎないのであって、悪しき来歴や現在の事情に鑑みて「古きならわしを無となす事」など、彼らにとっては「ならぬ事」なのだから。
 現状、誰がどう見ても「なってない」この日本を変えるためには、「古き日本」を ― 古来行なわれてきた「過去礼賛一辺倒」ならぬ客観的観察態度で ― 見据える目を持つ日本人の絶対数を増やすことが最低限の必要条件であろう(無論、十分条件ではないが)。
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