ぼかして【ものす】るその心理

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

 直接的に事を運びたがらぬ古典時代の貴人意識が反映された表現の一つがこの「ものす」。最も忌避されるべき不吉な「死ぬ」の代用語として用いられるのはもとより、大量の出血を伴い、しばしば母体/新生児の死の場面に直結した「生まる(読み方は、うまる/むまる)」も「ものす」とボカすので、現代の受験生としてはこれらの語義を「死の穢れ/血の穢れ」に絡める形で理知的に把握しておかねば、無用な棒暗記による脳細胞の過重労働を招くばかりである。
 意外なところでは、「行く」・「来(く)」なる日常的動作に関してまで「ものす」が幅を利かせていること。古典時代人がわざわざ自ら他者のもとへ「行」ったり他者に「来」てもらったりする場面には、「恋愛目的の密会」も多かったので、そのあたりをはばかっての「ものし」方かもしれない。
 「あり・をり・はべり・いまそかり」という(古典動詞唯一のイ段終止で表わされる)「存在」の意味にも「ものす」が用いられたが、これは「あり」が「・・・した状態で存在している」という補助動詞の意味で用いられていた言語学的事情と無関係ではないだろう。貴人の動作について「ものしたまふ」とする例は古文に頻出するが、「自ら直接何かを"なす"」のを好ましからざる行動様態とみなした古典時代だけに、「なしたまふ」・「したまふ」の婉曲語としての「ものしたまふ」にはそれなり以上の効用があったものと思われる。
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