【す】【さす】の「使役」が「尊敬」に転じる理由

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

-他者を「使役」する立場の者=上位者、という原理-
 元来「使役」の助動詞である「す」・「さす」が「尊敬」に転じる理由は明快である:「自分自身では事を為さず、他者を使役して・・・させる」のが古典時代の貴人の行動の基本線だから、である。
 元来「自発」の助動詞「る」・「らる」が「尊敬」を表わす原理は、「自分があれこれするまでもなく、周囲が御膳立てして自然に事態が成立してしまう」というものであったが、「す」・「さす」はそれよりも「上位者が手下をコキ使う」感じの身分差別を伴う分、「尊敬」助動詞としての敬意は強いことになる(そうした「エラそうに上から下へ命令してる」感じが嫌われて、現代日本語の敬語には「る・らる」のみが生き残り、「す・さす」は消えてしまったわけだ)。
-「尊敬」なのに「謙譲」?-
 文法的厳密性に欠ける日本語の中でも、特に滅茶苦茶なのが「敬語」の世界であって、元来自然性に欠ける人為的差別語でしかないその取って付け(古語で言えば「打ち付け」)の特性を実証するものとして、この「す」・「さす」に関しても次のような横滑り錯誤語義が平然と用いられたことを指摘しておこう:
 1)元来「エラい人」が「下々の者」に「・・・させる(使役)」という行動様態を捉えて「尊敬」の意としたのが「す」・「さす」である。
 2)が、上下の身分の差があるところ、しばしばそこに「す」・「さす」あり、という現象面のみ捉えた言語学的短絡の結果として、次のような主客転倒現象が発生した:
 A)「エラい人」が「ごらんになる」の「尊敬」を表わす「御覧ず」に、更に「尊敬(のつもり)」の「さす」を付けて、「御覧ぜさす」などと、「下位者」の分際で「エラい人」を「御覧ず」状態へと「使役(・・・させる)」ことになってしまうインチキ敬語を作ってしまった。
 ・・・無理矢理強弁して<(エラい人が)「御覧ず」方向へと(エラい人の周囲の人々に働きかけて)「さす」(根回しをした)>という理屈を振り回すセンセもいるが、現実は何のことはない、<「す・さす」って「敬語」じゃん!>というバカっちい錯誤ゆえに、「尊敬」のつもりで上位者を「使役」する羽目に陥った、というテイタラク以外の何物でもないのである。日本語・日本人の論理性など、今も昔も所詮その程度のものでしかないのだ(類例の豊富さは、本講座をきちんと読めば、イヤになるほど実感できるはず)。
 B)「エラい人」の「耳に入る」よう根回しする(=その時点ですでに十分に作為的な)「聞こゆ」に、更に「尊敬(のつもり)」の「さす」を付けて、「聞こえさす」などと、「下位者」の分際で「エラい人」を「聞く」状態へと「使役(・・・させる)」ことになってしまうインチキ敬語を作ってしまった。
 ・・・上述の如く、「聞こゆ」自体に既にもう「相手の耳に自然と入るような状況設定をする」という「人為性」が含まれているのであるから、そこに更に「さす」(使役)を加えて「作為の二重性」を演出する必要は全くない。この種の二重性で相手への「敬意」を高める効果が生じるのは「敬語の二重化」の場合のみであって、「使役の二重化」ではないのだ。これ即ち、この「聞こえさす」なるインチキ敬語の作者の薄ぼんやりした意識の中では、「さす」は「使役」ではなく「尊敬」の意味と誤解されていた ― より正確に言えば、「使役」が何故「尊敬」と化すかの根源的理由も知らずに、「使役」のままの「す・さす」を愚かにも「尊敬」のつもりで用いてしまった ― という動かぬ証拠である。「原理」を知らずに「現象面」の上っ面で軽薄ダンス踊るばっかだから、こういうバカみたいなコケ方をするわけである。
 日本人と日本語は、古来、こんなことばかり繰り返して来たわけである。この種の「誤解に基づく横滑り」から生じる論理性の著しい欠如は、日本語全般に関して概括的に指摘し得る現象ではあるが、特に「敬語」なる不自然話法に於けるそのヒドさは、言語に絶する壮絶さである・・・こんな度し難い代物恭しく振りかざす営みが、どれほど醜悪な行動であるか、理知的に理解できもせぬ相手に対しては、「敬語など使うに値せぬ」こと、言ふべきにもあらず、であろう。愚者のグシャグシャ話法を面白がってからかう場面以外では、「敬語」など、口にすべきにもあらず、なのである(・・・おわかりか、この種の愚挙とは無縁の英語あたりも御存知なき倭国のかしこきわたりの御歴々?)。
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