【rural:る・らる】(いなか)は「否:いな」のみ「可」なのが鎌倉以前

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

-「る・らる」=「可能」とは、誇大広告に非ずや?-
 助動詞「る」(四段・ナ変・ラ変に付く)及び「らる」(四段・ナ変・ラ変以外に付く)は守備範囲の広い語で、「自発」・「受身」・「可能」・「尊敬」と4つもの用法を持っている。
 この中で特に注意を要するのは「可能」の用法で、「可能」とは言っても、実際に使われるのは「疑問/否定/反語」の文脈のみだから、「不可能」の助動詞と言ったほうが正しい。
 「る」・「らる」が「・・・できる」という肯定の「可能」を表わすのは鎌倉時代以降の話であって、入試古文の大部分を占める平安時代の用法では「疑問・否定」専用語(俗に言うギヒ語)なのである。
-「可能」と「受身」・「使役」・「尊敬」の接点-
 この「可能」(実質的には「不可能」だが)の「る」・「らる」の語法は、「自発」の用法の延長線上にあるものである。「る」・「らる」の最も根源的な語法は「自然発生的に何事かが起こる(自発)」なのだ。
 そのように「自然発露的に事が"成る"」のを、古典時代の貴人たちがいかに好んだかは、この随筆の中でも幾度となく指摘していることである。「自ら動いて意志的・主体的に事を"為す"」のを彼らは好まない:あくまでも「周囲の状況が自然とそういう風に動いて、結果的に、事が"叶う"="可能"になる」のが古代の貴人にとって望ましい事態の展開であって、そうした「自発」的事態展開の中にあっては「主体的行為者」は存在しない(少なくとも、意識の表層には登場して来ない)・・・周囲に展開する「自然発生的事態」に「受身」の立場で「見舞われる」のみなのが貴人であって、そうして「自分から動くのではなく、外界からの働きかけに受動的立場で応じる」ことを基本線とする彼ら貴人の行動に敬意を表する形で生まれた語法が「尊敬」の「る・らる」というわけである。
-結果のみあり/過程なしの貴人(or日本人)意識-
 こうして考えれば、「る」・「らる」による「可能」の用法に、元来「肯定」がなく「否定」のみが問題になったことも理解できるであろう。
 「可能」を「・・・できる」と書けばいかにも「行為者の能力」が問題になる表現の感が強いが、古典時代の貴人は「行為」を直視しない;その「行為」の結果としての「出来事」だけしか彼らは見ないのである;「行為者」もその「能力」も貴人の評価対象外であるのは言うまでもないことだ。
 「AにはBができる」という陳述が意味を成すのは、「AにはCもできる、Dもできる、Eもできる」とか、「XにはYもできず、Zができるのみ」とかの形で、「可能な技能の考査表」を付ける場合である。「為す(=意志的・人為的行動)」を見ずに「成る(=受動的・自然的出来事)」を見るばかりの貴人にとって、「事が、成る」(自発)は即ち「事が、出来る」(可能)に等しいのであって、その「出来事」は「できる事(・・・可能)」としては感じられずに単に「出て来た事(・・・自発)」として受動的に受け流されてしまうばかり ― その「出来事」が「出来上がるまでの過程」も「作り上げた人物」も「その能力」も、何一つ見ずに「結果」だけしか見ないのが日本の貴人の意識なのである・・・オリンピックのたびにあらわになる現代日本人の「金メダル至上主義」を見ると、古代の貴人の「事はただ成るもの・・・事為す過程など、見るべきにもあらず」という阿呆臭い「(良い)結果(のみ)享受主義」と二重写しになって、醜いことおびただしい(筆者は西欧流プロセス謳歌主義者なのだ)。
 そうした「結果オンリー」のいびつな目しか持ち合わせぬ古代の貴人(or奇人or現代日本人)にとって、「出来事」の「可能性」が問題になる唯一の場合とは、「出て来なかった」場合のみである:即ち「事がうまく成就しなかった場合=不可能」のみが「る」・「らる」の「可能」の語義では問題になるわけだ。「出て来た結果」は「ただそこにあるもの(自発)」として「過程無視主義者」の朦朧たる意識の中に埋もれてしまい、「能力の成果として成ったもの(可能・・・の肯定形)」としての扱いなど受けないわけである。
- 「受身」的「自発」成果享受階層たる「尊敬」すべき御公家の時代(平安)の終焉 = 「能力」(肯定形の「る/らる」)評価時代(鎌倉)の始まり -
 自分では何もせぬくせに、他人の主体的努力・能力の成果を「わがもの」顔で誇らしげに受け入れ自分の手柄にしてしまう平安時代の京都の貴族連中(・・・とばかり限定すべきものか否かは甚だ疑わしいが・・・)の寄生虫的生き様が限界点に達し、地方に下って地元民との共同生産者・武断的支配者としての実力を着々と身に付けていた武家階層(平清盛や源頼朝たち)の時代が始まると共に、助動詞「る」・「らる」は歴史上初めて「・・・できる」という肯定的な「能力」の評価記号としての生命を得た。このあたり、実に「言葉は生き物」の感を強くさせる展開である。
 時代が死んでいれば言葉もまた死んでいる。実質豊富な語(名詞・動詞・形容詞・形容動詞)が力なくしなだれて、無意味な空元気語(副詞・接続詞・助詞・感動詞)ばかりクソやかましくも空しく飛び交う言語生活が、豊かな個人/社会の姿を浮き上がらせるはずがない・・・今の日本人がどういう状況か、彼らの会話の「品詞分解」ひとつで、ずいぶん色々なことが(直視に堪えぬことまで)見えてくることであろう・・・あなたには、直視する勇気がありますか?それともあなたも「御公家さん」ですか?
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