【おす】【めす】【はむ】【くふ/くらふ】【たぶ】ん?・・・【マイル】還元、オッケーですか?

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

 大方の言語学的に無知な日本人は、「敬語」という代物を異常なほど恭しく崇め奉っていて、それが「マトモに使えぬ連中=無教育者」vs.「まともに使いこなせる自分=頭のいい人間」という安直な図式の上に胡座をかいて悦に入っているのが見て取れて吐き気がする場面が実に多い・・・日本語の古今の姿を熟知しつつ、英語という鏡を通して客観視することのできる言語学的展望を有する知識人として断言するが、日本語の敬語というやつの論理的無茶苦茶さは、世界に類を見ぬほどの度し難さであって、こんなどうしようもない代物に「マトモな使い方」が成立するなどと異常なことを思っている人間は「アタマがマトモじゃない!」のである。
 敬語のバカ臭さの実証例は山ほどあり、それらを見据えて「日本語の恥部」として確実に認識することもまた古文学習の大事な課題であるから、ここでは、この「参る」なる「謙譲語」が、何時の間にやら「尊敬語」に化けた阿呆臭い事情の解題を通して「敬語ごときトンマ話法を敬うアホ日本人を一人でも減少させる」という社会浄化運動の一環としたいと思う。
 「参る」が「尊敬」になる場面は 「飲食」系の語に限定されている:「着る」・「為(す)」等にも横滑りしてはいるが、根源的に「食む(はむ・・・’歯’に由来)」・「食ぶ」・「食ふ」・「食らふ」・「飲む」なる動詞の使用を回避するための「参る」である。
 本講座では幾度となく指摘してきたことだが、古典時代の貴人にとって「飲食」は不浄の営みであった。動物を捕らえて殺して切り刻んで煮たり焼いたりしてその生命力を我がものとして奪い取る営みが「食ふ」ことである以上、そんな「穢れ」には主体的に関わりたくない ― その偽善的な目隠し体質が、「飲食系の’動物的’行為」への直接的言及を(例によって!)忌避させたわけである。
 その結果として、これら飲食系の動詞の代替物となったのは、上代に於いては「をす(食す)」であり、中古には「めす(召す)」が一般的となった(別に♂と♀を絡ませて遊んでるわけじゃないが、ダジャレで覚えておくのも一法ではあろう)。これらの語については、(その偽善的心理についてはともかくも)言語学的に問題はない;「尊敬」一本槍の語だからである・・・が、「参る」にはまったくまいる;「謙譲」が「尊敬」に化ける道理がないのに、「貴人の飲食」場面に関しては「敬語」なのだから!
 察するに、「謙譲」の「参る」を用いて<貴人の眼前に「食事」を「献上」>する場面が、<貴人が「食事」を「飲食」>する「敬語」へと安直にすり替わってしまったのであろう・・・が、こんな主客転倒芸を平然と演じられては、その言語の理知的解明作業は著しく困難(or実質的に不可能)となる ― そんな芸当を無数に演じられてしまえば、もはや「あほらしくて付き合ってられん!」となるのが理の当然・・・古今、「古文」なる教科に人気がないのもむべなるかな、である・・・が、そうも言ってはいられない日本人も多かろう。なにせ「古文」は入試に当然のような顔をして出るのだから受験生としては「無縁ではいられない」はずだし、第一、この「非論理体質」は現代日本語にもそのまま(否、遥かにパワーアップした形で!)継承されているのだから、日本人の誰一人としてこの「あほらしくて付き合ってられん言語」と「無縁ではない」のである・・・。
 ちなみに、この種の<「謙譲」・「尊敬」錯覚型敬語>は「参る」のみにとどまらない。事を「飲食」系に限ってみても、「聞こす」なる「謙譲語」が「お食べになる/お飲みになる」の「尊敬語」に化けている現象を指摘することができるし、有名どころで言えば例の(尊敬語の王様!)「給ふ(たまふ)」が「謙譲語」に化ける現象を知らぬ受験生は(まともに勉強してるよい子のみんなの中には)一人もおるまい・・・一応、活用形だけは「四段=尊敬/下二段=謙譲」と分化しているので、表面的体裁だけは「文法的に意味ある変化」に思われるが、そんなのはあくまでも形ばかりのことであって、これまた「貴人関連の場面」だからこそ「尊敬・・・だったっけか?ま、いいゃ、どうせ似たようなもんだから謙譲の意で使ってもよかろうぞ」の意識が根底にあったことに疑念の余地はない(類例の多さからして・・・「Grammar is based on usage.」文法的考察は、実例の多さに依拠して行なうべきもの、なのである)。同様の「へりくだり?もちあげ?」の錯乱現象は「まおす(申す)」なる「謙譲語」を「我がが申しますには」的な「丁寧語」とも「尊敬語」ともつかぬヘンテコな形で用いる例(「時代劇中の」サムライことば)にも現われている。こうした横滑りばかり繰り返す日本語では、古語のうち、時代を経てもなおその原初用法をきちんと留めているものは(絶望的なまでの)少数派なのである・・・。
 が、何よりも根の深い問題は次のことであろう ― この種の日本語の安直なる非論理体質をきちんと指摘する人間を、この筆者は、自分自身以外に一人も知らない ― 即ち、「自分は日本人である」→「日本語は自分の母国語である」→「日本語を悪く言う者は自分を悪く言うも同じである」→「日本語、即ち、この自分を悪く言う者は、許さない」&「他の日本人を悪く言うことでその怒りの矛先を自分自身に向ける行為は、できない」という心理学的すり替えにコロリとはまってしまう知的短絡体質と、姑息なる社会学的逃避体質とが、古来、この日本国には蔓延している、ということである。・・・これでは、言葉も、社会も、改善の余地がない!
 露骨に感情的&感傷的な身びいきは何の渋面もなしに罷り通るこのダメな日本国に対し、この筆者は当然辟易してはいるが、それでもなおかつこの国の恥部をあげつらうことをやめるつもりがないのは、醜悪さから目を逸らさぬことが、美しく変わるための唯一の道だと信じるからこそであり、どうでもいいやつならともかく、愛する母国(&その同朋たち)にはやはり美しくあってほしいと願うからこそである・・・もっとも、この国にはそうした献身的批判はまるで流行らないようで、筆者のこの哲学を代弁してくれる次の台詞も、(同じ島国とは言いながら日本とはまるで異質の)英国の小説家John Boynton Priestley(1894-1984)のものであるのが、少々残念なところだが・・・ともあれ、ダメ国家日本に平然と安住している困った面々には、一読を勧めたい:
 We should behave toward our country as women behave toward the men they love. A loving wife will do anything for her husband except to stop criticising and trying to improve him.
 我々の母国に対する態度は、愛する男に対する女性の態度と同じであるべきだ。夫を心底愛する妻ならば、彼のためなら何でもするものだ ― 彼女が唯一しないのは、「批判を通して彼を改善するための努力を放棄すること」のみである。
 ・・・もっとも、「相手が批判を聞く耳を持たない」&「相手に改善の余地がない」ということを確信させられてしまった場合、残された道は唯一、「離婚」しかないことにはなるが・・・。
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