【見る】は恋愛の始まり?それとも終わり?

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

-「あひみる」までが一苦労の古典時代-
 現代語とあまりに異なる意味に愕然とさせられる古語も多いが、「見る」が「男と女が、恋人同士になるor肉体関係を結ぶ」の意味を表わす場合などはその代表例であろう。
 なぜ「見る」がそうした濃密な恋愛関係語となり得るか、と言えば、それは「よほど深い関係にならないと、女性とまともに顔合わせが許されない」のが古典時代の(少なくとも、物語の主人公になるような高貴なる男女の)風習だったからである。
 きちんと「見る」ことが出来る前にも、無論、男が女を「見初める(みそめる)」契機は用意されているわけで、自室の縁側に座っている女性を「垣間見(かいまみ・かいばみ)」することは、古典時代公認の「恋のなれそめ場面」であった。
 また、「なんでもすごい美人が**さんの家にいるらしい」とかの噂話が恋の契機となることも多く、男の気を引くための噂のをまくことだって、当然横行したはずの時代なのである。
-まずは恋文&恋歌のやりとりから-
 そうした「見る」前段階で女性を「見初める」と、古典時代の男はまず、彼女に宛てて手紙を書いた。無論、ただ雑然と(140文字かそこらで)自分の気持ちをつぶやいただけの散文でよいわけではない。自らの想いを気の利いた31文字の詩文に込める程度の文芸的嗜みは必要とされたし、文字の上手さもまた女から男への品定めに於いては重要な判断要素となった。
 こうした手紙は、何も「男→女」の一方的遂行義務ではない。手紙&恋の短歌をもらった女もまた、それが自分の好みに合うものだったなら、それ相応の「返歌(かへし)」付きの手紙を書いて男性に送ってやるわけである・・・その歌がショボかったり、文字が男の幻滅を誘うような拙さだったりすると、思いはもう伝わらず、それっきり;相手の男からの手紙は期待できない。
 こうして、「見る」までの間の恋文のやりとり段階が、結構大変だったのが平安時代の(少なくとも、貴人間の)恋愛の特性なのだから、そうした「第一次選抜」を見事勝ち抜いた男・女が「見る」or「逢ふ」という行為には、現代的な「見る・会う」には宿らぬ濃密な心情的色彩がこもるのも、当然と言えるであろう。
-逢ひ見ての後の心・・・やこれいかに?-
 そうまでしてようやく、恋文交わしまくった相手を「見」、夢にまで見た「逢瀬(あふせ=おうせ)」に漕ぎ着けた時が、本格的な恋愛(=生の言葉のやりとりとか、生身の肉体のごあいさつとか)の始まりとなる・・・か、と言えば、必ずしもそうではないことに、ここで注意を促しておこう。
 考えても見てほしい:「逢ひ見る」までの間、この男女は、お互いの姿形を、まともに見ることはなかったのである。ただ、「素敵な男/女がいる・・・らしい」ということで、「それなら是非とも、生身で逢って見たい」との想いを込めて、「夢に思い描いた素敵なあなた」への恋文ばかり書いて過ごしていたわけである。そうして「夢にまで見たあなた」に、「現実に会って見た」ところが、「ぁらら・・・夢に思い描いていたような人じゃ、ないじゃん・・・」ということになる可能性もそこにある、という残酷な真実を、避けて通るわけには行かないであろう。
-だから大事な「後朝の文(きぬぎぬのふみ)」-
 そういうわけで、男女が初めて「逢ひ見る」場面は、「本当の恋の始まり」となるか、はたまた「恋に恋した恋文時代の終わり」となるか、天国と地獄の別れ道だったわけである。その緊張感たるや、現代男女の(既にもう顔合わせだけは済ませている)初デートとは比較にならぬものだったろう。
 特に、女性の側は大変である。なにせ「妻問婚(つまどいこん)=結婚したとしても、男女は同居せず、男が、女を愛したい時に彼女の家を訪れるだけ」の時代であり、女は常に「男の来訪を待つばかり」の受動的立場・・・初めて自分を訪れてくれた男が、二度目以降もまた自分を「見」に来てくれるのか、今後も幾度も重ねて(初めて相手に明かした)自分の名を「呼ばふ」(=何度も口にする)ほど自分のことを気に入ってくれたのか、そうして自分の部屋へと「通ふ」(=恋人として頻繁に足を運ぶ)ことになるのか・・・短期間に連続して3夜の愛の訪問があればそれを以て「結婚の意思表示」とみなす、というような緩やかな規程が平安時代の貴人の恋愛作法としてあったらしいが、三度はおろか、二度目がもうない「αにしてΩ(アルファーにしてオメガ=最初の1回が最後の1回)」の逢瀬だって、数えきれぬほどあったはずなのだ。
 現代では、初デートの時に、二度目の約束を切り出さないようでは脈なし、ということになるが、古典時代はやや事情が異なる。初デートに次ぐ新たな展開があるか否かは、それが終わり、男性が女性のもとを去って数日以内に、その男性から改めて女性のもとに「後朝の文(きぬぎぬのふみ)」が届くかどうかで、決まるのである。「きぬぎぬ」とは「衣衣」であり、「肉体関係を結んだ男女が、事果てて後、朝、お互いの着物を着て、わかれる」様態を指す語である。「初逢瀬」で必ずしも肉体関係が結ばれるとは限らないが、とにもかくにもその直後に届く手紙は「きぬぎぬのふみ」である。「初デート、とてもよかったです。次もまた逢ってくれますか?」の想いを(情感たっぷりの歌に込めて)男が女に送るわけだ。これが継続的恋愛関係を求める男側の意思表示であり、それは「逢ひ見ての翌日以降」に表明される、というのが古典時代のデートの流儀である。
 そうした「後朝の文」が届けば、後の選択権は女性の側に移る:「ぇえ、いいわ。また来てね」といそいそ返事を書くか、「・・・あの男ねぇ・・・もぅ、ぃぃわ。返しも書く気しなぃ」ということで袖にしちゃうか、これまたそれなりにスリリングな展開である。
 が、何といっても最も息詰まる思いの物語は、初の逢瀬の直後の女性の、「あの男、また逢ってくれ、と言って来てくれるかしら?」という待つ身の心細さに満ちた数日間の「後朝待ち」の心情のほうであろう。たとえ相手が自分の意に染まぬ男だったにしても、やっぱり「初デート直後のお誘い」がないのは女にしてみれば悲しいものであるし、「見」てから改めて好きになってしまった男性が「もうこれっきりにしよう」とばかりお手紙もくれぬままナシのツブテというのでは、悲しいにもほどがある。
 そんな訳で、男の側としては、待つ身の女性の焦燥感をきちんと思いやりつつ、翌日か翌々日あたりまでには確実に相手に届くような形で「後朝の文」を送るのが(相手がそれに値する女性だと感じた場合の)作法であった。
 無論、「あーぁ、逢ったら一気にサメちゃった・・・」という場合はNO-MAILでよいし、数日間音沙汰無しの放置状態を続ければ相手の女性も「脈なしね」と諦めるだろう、という割り切りも許された。が、あまり乗り気になれない女性相手でも、それなりの「感情温度の低い手紙」ぐらい送ってやる、というような優しい男性もそこそこはいたはずだし、このあたりの事情は女性の側に関しても言えたろうから、「おざなりな手紙ばかりの関係」というのがないでもなかったはずである(・・・物語としては冴えないので、あまり語り継がれてはいないけれど)。
-かなり「異常」な「宮仕へ」の女房たち-
 こうして、「見る」ことが、極めて親密な関係の男女間のみに限定された古典時代にあって、日常的に「見る」ことができる希有なる女性たちがいた ― 宮中出仕者としての「女房族」であり、中古女流文学の筆者となった層である。これは、古典読みとして極めて大事な前提知識である。
 そうした女房族の手によって書かれた『枕草子』や『源氏物語』ばかり読んでいると、「平安時代の男女関係って結構オープンじゃん?女が男に向かってかなり気安く口聞いたり、軽妙な恋の軽口交わし合ったりして、全然お堅い雰囲気じゃないみたい」とか錯覚しがちだが、あれは舞台が「宮中」だったからこその例外中の例外である。女房族というものが、「女が、然るべき手順を踏んで深い関係になったわけでもない不特定多数の男たちと、気安く会ったり言葉を交わしたりするなんて、どうかしてる」的な世間の白眼視にさらされていることを、「仕方ないわね、実際、そうだもの」として慨嘆する文章が『紫式部日記』にも出てくるし、あの時代の女房族のそうした「オープンすぎる社会的特性」が、後代の(男女を殊更に分け隔てたがった)儒教道徳にもそぐわなかったので、清少納言に関する極めて下品な各種の俗説が生まれたりしたのであろう。
 そうした下品な話の詳細は、ここに記すと紙面が汚れるので敢えて書かない(興味ある人はネット検索でもしてくださいな);が、紫式部について「関白藤原道長妾(かんぱくふじわらのみちながのめかけ)」などと堂々と書いてある後の世の文物がある、という事例一つを以てしても、「宮仕への女房=宮中の男どもとよろしくやってた好色な女たち」という後代の感覚が何となくわかるであろう。そもそも「道長=関白」などという史実に反する記載だけからしても、まともに取り上げるに値せぬ思い込み文章ではあるが・・・実際には、道長は「関白」の特権たる「内覧=政策決定事項を、天皇に報告する前に閲覧すること」は手にしたが、「関白」(=天皇の後見役として影響力を行使することはできても、政策決定権は持たない)にはならずに、政治的実権を持つ役職の最高位「左大臣」の地位に、わざと留まった男なのだから。
 とにもかくにも、古典時代というものは、一般的に、男は女をそう簡単には「見る」ことができぬ時代であった、という事実は覚えておこう。なかなか「見」得ないからこそ、「見まくほし(=是非みたい)」の思いは募るのであって、見え見えの存在や、押し売りがましく視界内に出ずっぱってる相手には、人は恋い焦がれたりしないもの。見えそうで見えないぐらいの感じが男心をソソるのは、女性のミニスカートも古典的恋愛事情も同じこと、というお話であった
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