【つれなし】と【うたて】

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

-他者に「連れ」て動くべし、との古典時代の貴人意識-
 「つれなし」は、現代にもなお「つれない態度」などとして残る語であるから、「こちらの感情にまるで配慮も敬意も示さず、冷淡」のその語感は大方の日本人にはすんなりわかるであろう。が、何故そこに「冷淡」の響きが宿るのであろうか?
 これは、「つれ=連れ」であって、「自分の側の気持ちや都合に対する、外界側の連動性」が「無し」であるから、「自分のことなどまるでお構いなしにずんずん勝手に進む世界の態度」が「無情だ・冷たい・素っ気ない」として「つれない」感じになるわけである。
 古典時代の貴人達は、その世界が(良かれ悪しかれ)極めて閉鎖的であり、その狭い世界の中での振る舞い方の約束事というものがかなりきっちり決まっていたので、「ツーといえばカー(ツーカーの仲)」、「アと言えばウン(阿吽の呼吸)」の掛け合い漫才型行動様態が尊ばれ、自分がこう「ボケ」たら相手はこう「ツッコミ」返すのが当然、というような期待をもっての対外行動が基本線だったのである。
 従って、そうした「自分としては、相手に・・・してもらえるものと思って~~したのに、この相手は全然・・・してくれない」という無反応に接すると、「連れ無し=つっけんどん・つまらん」の落胆ぶりを示すことになる。
閉塞世界は「見遣し」に走る-
 この種の感覚は現代関西人にも連綿と引き継がれているし、21世紀初頭の日本の「テレビ」という見せ物箱の中の「中学校学芸会的出し物連続興行世界」の中で、無能なバカ芸人どもがエラそうにホザいていくさりやがる「空気読めないやつ!」に対する軽蔑調のボヤきの独善的毒性も、「狭苦しい世界の住人どもは、自分の側の都合に外界が歩み寄ることを強要する体質に陥るもの」という「見遣し(みおこし)理論=オマエら、こっちの方見ろよ!こっちの都合に合わせろよ!」の実証例として(のみ)、わずかばかりの注目に値するものであると言えよう。押し売りする側の分際で、視聴者に対し、「オマエら、こっちを見ろ!」といけしゃあしゃあと叫んでやがるのだから、織田信長あたりの合理的独裁者がこれを見たら「テレビ業界は焼き討ち&皆殺しにせよ!」と叫んで大変なことになるであろう・・・よかったね、衆愚政治の時代で。
-「うた」ってばかりの勝手な「うたて」-
 周囲の人間の都合などまるで無視して、専ら自分の個人的思惑だけで突っ走る行動様態を非難する古語には、もう一つ「うた」というのがある。「歌ふ」のも「訴ふ(古語では’うたふ’で、’うったふ’ではない)」のも、根っこはみなこの「私的感情の暴走」である。「私ぃー、いま、モーレツに歌いたい気分なのっ!」とか叫んで嫌がる相手の都合も無視してカラオケボックスに飛び込みたがるバカ日本人は現代に掃いて捨てるほどいるし、「先生、私、この頃ひどく・・・なんです」とくだくだ訴える「私ってやっぱ、ヘンでしょ?ね?’病気’の御墨付き頂戴!」症候群の患者さんたちも山ほどいる御時世であるから、この種の「うた」の自己本位さが外界をいかにうんざりさせるものか、わかる人にはわかる(当人だけはわからない)であろう。
 そうした、個人の好き勝手な行動を延々続ける「うた」を、二枚重ねの畳語としたものが「うたうた」であり、それが詰まった「うたた」やその変形の「うたて」が、「おぃおぃ、まだ続ける気かよ・・・かんべんしてぇくれぇーっ!」的な「延々・・・である」とか「ますます・・・であって留まる所を知らぬ」とかの、周囲の人々からの悲鳴交じりのような否定的意味を表わす古語であることは、大事な古典知識であるが、その背後にもやはり「周りの人達がどう感じるか、ちゃんと考えて行動するのが当然の作法・・・それを外す人の行動は、ケッタクソ悪ぅ」という古典時代人の意識があるのは言うまでもない。
 というわけで、「うたてし」や「うたて、ゃなぁー」と平安人が叫ぶ時、それは「歌で場をもり立てる魔術師」とか「ぃよっ、あんさん、いっぱしの歌い手、グレート・シンガーゃなぁー!」とかの誉め言葉ではなくって、「ぇえかげんにしたってんか」の慨嘆であること、そうした外界無視の利己的行動への非難の性質に於いて、「つれなし(外界との連動性なし)」と「うたてし(外界無視の自己中心的行動を延々続けて反省の色なし)」とは、よく似た性質を持つ古語であること、覚えておくべきであろう。
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