「すさび」がすさんで感じるわけ

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

 「すさんだ生活態度」、「すさまじい凶暴さ」等々、現代日本語にも引き継がれる「すさぶ」・「すさむ」の否定的語感は、その語源に含まれる「進む」に由来する。その「進行」ぶりが、人間的な思惑や計画性にしっくり寄り添って気持ち良く流れてくれるものならば「順調」の快感をもたらしてくれるものの、そこに何らの深い事前準備もなく、周囲の人間を置き去りにして身勝手にズンズン突き進むような、有無を言わさぬ強引で身勝手な事態の進展であれば、人間的反発を招くのは当然の話である・・・そうした傍若無人な事の進め方・すすみ方、それが「すさみ」・「すさび」の嫌味な本質である。
 人間的思惑を無視して勝手に突き進むこの感覚は、また、他人に対してのみ発揮される度し難さではない。自分自身の意思に反して、思わず知らずそうなってしまう、我ながられんばかりの自然発露的放縦野放図ぶりもまた、「すさび」・「すさみ」の範疇に入るのだ。
 今の自分の置かれた状況に、それが良いものであれ悪いものであれ、ただ漫然と慣れきってしまい、恵まれた境遇への感謝もなければ、難局からの脱却を目指す積極的努力もなしに、だらだらと現状に甘んじる態度を「有りの遊び(ありのすさび)」と呼ぶ。
 本心からの感動もなく、真剣な芸術創作の態度で臨むでもなしに、なんとなく詩歌を思い付くまま口に出してみたり、不意に頭に浮かんだ旋律を鼻歌っぽく歌ってみたりすることを「口遊み(くちずさみ)・口遊び(くちずさび)」と呼ぶ。この同じ語はまた「無根拠・無責任な噂話」の意味でも用いる。
 このように、人間の思惑を越えたところで勝手にずんずん進むものなればこそ、「すさまじきもの」と感じ、「すさんでる」として非難される様態、それが「進び」であり「荒び」であり「遊び」なのだ。最後の「遊び」は「アソび」とも読む。
 確たる目的意識もなく、ただ心のくままに好き放題やること、それが「あそび」であり「play」である・・・この様態はまた「うたた」とか「うたてあり」とかの語で非難される様態でもあり、その「うた」の表わす「自分の思いのままに周囲を無視して好き放題やること」は「歌」の原義でもある。「いつまでも好き勝手に歌ってんじゃねぇよ、このクソバカ野郎!」的な感じである・・・当人にとってはひたすら気持ち良いが、置き去りにされたり勝手なゴタクや耳障りな音声を延々と聞かされるばかりの周囲の他人から見れば不愉快な代物・・・それが「すさび」・「すさみ」・「うた」・「あそび」の本質なのである。
 質実剛健な目的意識に裏打ちされた生産的産業が下火となり、ただ漫然と「ゲーム産業」だの「音楽業界」だのの商業的生命力(要するに、カネが右から左へと流れるだけ)に依拠しているばかりの21世紀初頭の日本の国に、先行きの見えぬすさまじき閉塞感が吹きすさぶのも、実に当然のことと言えるだろう。playersingerの私的ガス抜き以外の何ものにも資することなきゲームやウタばかりでは、真の人間世界は何一つ進まないのである。
★「ツィッター」でこの「古語随想」の記事を紹介→