【かかるホドに】・・・で書かれぬモノ

WEB古文講座『扶桑語り』より・・・「古語随想」ちょいかじり和語教養講座

-恋愛ばかりの古文世界-
 日本の古文の世界は、男女の色恋模様だらけである。それはそうだ:「古文といえば平安時代」→「平安時代の古文と言えば、女流日記文学&女房文学&和歌」→「女の日記、女の妄想、男女の歌うたいの動機、と言えば、愛したい・愛されたい・アレしたいっ!」と、古今東西、相場が決まっているのだから。この『扶桑語り』の創作物とて、平安調擬古文として編まれている以上、通常の21世紀日本文物に比すれば、異常なまでに色恋密度が色濃い・・・が、それを筆者の個人的嗜好に結びつけられては困る(・・・ってわけでもないが、それが誤解であることだけは指摘しておこう)。
-現代版ラヴ物語と古典(&星新一ショートショート)世界の根源的相違-
 さて、それほど恋愛だらけの古文だが、同様に異常なまでの濃密さで色恋と暴力だらけの現代日本TV&漫画&その他の文物に比して、古文の恋愛模様が現代のそれと全く異なる点が一つある・・・それは何でしょう?
・・・ヒントは、「星新一作品と同じ」(現象的にも、原因的にも)
・・・答え=「男女の性交渉場面を描く生々しい記述が一切存在しないこと」。
 では、何故日本の古文や星新一の作品には、ラブシーンが一切登場しないのか?
・・・ヒントは、「何で現代のアレやソレやコレでは、愛欲場面ばかりが幅を利かせているか」を考えれば、その裏返しで答は出てくるはず
・・・答え=「現代の粗忽なアレやソレやコレでは、虚構世界構成力という根源的な存在の土台を持たぬ脆弱さを、love & war(愛と戦争)という何でもアリのエピソード群でドサクサ紛れに誤魔化しているだけ」なのだから、その裏返しとして「見かけ倒しの扇情的な色物の出し物で客の動物的興奮を煽り立てる姑息な芸当に走らない作品」には、「肉欲のむしり合いという動物的行動様態の絵画的描写」は似合わない。そんなもの、誰がどう書いたとて似たような代物にしかならぬので、出し物としてはその描写そのものよりも、出し物を演じる男女の物理的な魅力のみに依拠することになる:美男美女のカラミ合いで人目を引こうというブザマな道へと必然的に堕落するしかないのである。それでもいずれ客は飽きる:そうなれば次は、その恋愛場面の「異常性」で人目を引く以外に手は残されていない・・・かくて、不倫、三角関係、浮気、乱交パーティ、夫婦交換(swapping)、特殊体位、強姦輪姦獣姦近親相姦幼児蹂躙、等々等々等々、異常性愛のオンパレードとなるわけだ;が、それでも、大脳部位の動物的部分の興奮以上のものを求めてもいない大衆(その数は知的人類を圧倒的に上回る)の目を引き付けさえすればそれでよい世界には、性欲の代償的充足のみを効用&目的とする文物が氾濫するわけである。
 この種の醜悪な螺旋階段を無限に転落するばかりの愚かな道に、古典文物が陥らなかった理由を、彼らの倫理性に求めるのは間違いであろう:平安人がそれほど禁欲的でも自制心旺盛でもなかったことは、よほど不勉強な高校生でもない限りは誰もが知ることである。要するに、彼らの世界では「ラブシーン」は生身で自由に演じるものであって、紙の上で読むものではなかったのだ。江戸時代のように儒教道徳でがんじがらめの禁欲的な世界でこそ、「世話物」だの「春画」だのは隆盛を極めるのであって、その種の押し縮められたバネのような擬似的性欲充足表現推進の必然的原動力もない世界で、「裸の男女の物語」の現象面のみを追いかければどうなるか・・・その実験の最先端を走るのは、20世紀末から21世紀初頭の現代日本の「マンガ&漫画的なアレやソレやコレ」である;この種のあけすけポルノ文物でのア・ソ・コの描き方は、「ヨーイ、ドン!」で走り出したが最後もうどん底に行き着いてにっちもさっちも行かなくなるまで止まらない、勝者不在のジリ貧レースでしかない。それでも、この種のエロ物にほいほいカネを払いたがる大量の消費者を相手にすることで目先の利益を安直に稼ぎ出す(だけの)役には立つので、日本は、泥沼の底への沈澱を、この先も死ぬまでずっと続けるであろう(・・・みんな一緒に下劣を演じることが、この国の連中は、心の底から大好きなのだ)。
-ラブシーンの直接描写回避手段としての「meanwhile」型古文表現-
 そういう次第で、「色恋の扇情的場面そのもの」を「出し物の一つ」として封印する日本の平安調文物の中にあって、では、男女が事に及ぶ場面の前後は、どう片付けるのであろう?・・・単純なことだ:「かかるほどに」だの「とかくせるほどに」だの「ややあって」だの「とばかりありて」だのといった、英語で言えば「meanwhile / in the meantime:しばしの間を置いて」系の言い回しを置くことで、前・後の異なる場面の間に(大人のみなさんならよく御存知のはずの、アレ、がありまして)の口上を打って、おしまい、である。無論、古文に出てくるすべての「ややあつて」が、「生臭くてここには書けない事情が途中にありまして」の意味を持つわけではないが、この種の表現に出会ったなら、少しばかり大人の機転を利かして見る必要があるとは言えるだろう。
 日本の古典文物には、文芸的にはさほど見るべきものもないかもしれないが、物の見方を少し変えて、現代の自分自身を映し出す鏡として見た場合、そこに映って見える我々の顔をじっくり覗き見する勇気があれば、かなり面白い ― 少なくとも一時の情欲を刺激して数十秒で果てるようなラブシーンより数段興奮するような ― 赤裸々な自分の像を見ることができるだろう。
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