堤中納言物語002)このついで

 春の物とて詠めさせ給ふ昼つ方、台盤所なる人々、「宰相中将こそ参り給ふなれ。例の御にほひ、いとしるく」などいふほどに、ついゐ給ひて、「よべより殿に候ひしほどに、やがて御使になむ。『東の対の紅梅の下にうづませ給ひし薫物、今日のつれづれに、試みさせ給へ』とてなむ」とて、えならぬ枝に、白銀の壺二つつけ給へり。
 中納言の君の、御帳の内に参らせ給ひて、御火取あまたして、若き人々、やがて試みさせ給ひて、少しさし覗かせ給ひて、御帳のそばの御座にかたはら臥させ給へり。
 紅梅の織物の御衣に、たたなはりたる御髪の裾ばかり見えたるに、これかれ、そこはかとなき物語忍びやかにしてしばしさぶらひ給ふ。
 中将の君、「この御火取のついでにあはれと思ひて、人の語りしことこそ、思ひ出でられ侍れ」とのたまへば、大人だつ宰相の君、「何事にか侍らむ。つれづれに思しめされて侍るに、申させ給へ」とそそのかせば、「さらば、つい給はむとすや」とて、「ある君達に、忍びて通ふ人やありけむ、いと美しき児さへ出で来にければ、あはれとは思ひ聞こえながら、厳しき片つ方やありけむ、絶え間がちにてあるほどに、思ひも忘れず、いみじう慕ふがうつくしう、時々はある所に渡しなどするをも、『今』なども言はでありしを、ほど経て立ち寄りたりしかば、いと寂しげにて、めづらしくや思ひけむ、かき撫でつつ見ゐたりしを、え立ちとまらぬことありて出づるを、ならひにければ、例のいたう慕ふがあはれにおぼえて、しばし立ちとまりて、『さらば、いざよ』とて、掻き抱きて出でけるを、いと心苦しげに見送りて、前なる火取を手まさぐりにして、
  子だにかくあくがれ出でば薫物のひとりやいとど思ひこがれむ  
と忍びやかに言ふを、屏風の後にて聞きて、いみじうあはれにおぼえければ、児も返して、そのままになむ居られにし、と。『いかばかり哀れと思ふらむ』と、『おぼろげならじ』と言ひしかど、誰とも言はで、いみじく笑ひ紛はしてこそ止みにしか。」
「いづら、今は、中納言の君」とのたまへば、「あいなきことのついでをも聞こえさせてけるかな。あはれ、ただ今の事は、聞こえさせ侍りなむかし」とて、「去年の秋のころばかりに、清水に籠りて侍りしに、傍らに屏風ばかりをはかなげに立てたる局の、にほひいとをかしう、人少ななるけはひして、折々うち泣くけはひなどしつつ行ふを、『誰ならむ』と聞き侍りしに、明日出でなむとての夕つ方、風いと荒らかに吹きて、木の葉ほろほろと、滝のかたざまに崩れ、色濃き紅葉など、局の前にはひまなく散り敷きたるを、この中隔ての屏風のつらに寄りて、ここにもながめ侍りしかば、いみじう忍びやかに、『
  いとふ身はつれなきものを憂きことをあらしに散れる木の葉なりけり  
風の前なる』と聞こゆべきほどにもなく、聞きつけて侍りしほどの、まことにいとあはれにおぼえ侍りながら、さすがにふといらへにくく、つつましくてこそやみ侍りしか」と言へば、「いとさしも過ごし給はざりけむとこそおぼゆれ。さてもまことならば、口惜しきは御ものづつみなりや。
 いづら、少将の君」とのたまへば、「賢しう、物も聞こえざりつるを」と言ひながら、「伯母なる人の、東山わたりに行ひて侍りしに、しばし慕ひて侍りしかば、あるじの尼君の方に、いたう口惜しからぬ人々のけはひあまたし侍りしを、『紛らはして、人に忍ぶにや』と見え侍りしも、隔てのけはひいと気高う、ただ人とはおぼえ侍らざりしに、ゆかしうて、物はかなき障子の紙の穴かまへ出でて、覗き侍りしかば、簾に几帳そへて、清げなる法師二三人ばかり、すべていみじくをかしげなりし人、几帳のつらに添ひ臥して、この居たる法師近く喚びて物言ふ。
 何事ならむと聞き分くべき程にもあらねど、尼にならむ、と語らふ気色にやと見ゆるに、法師やすらふ気色なれど、なほなほ切に言ふめれば、『さらば』とて、几帳のほころびより、櫛の箱の蓋に、たけに一尺ばかり余りたるにやと見ゆる髪のすぢ、すそつきいみじう美しきを、わげ入れて押し出す。
 傍らに今少し若やかなる人の、十四五ばかりにやとぞ見ゆる、髪たけに四五寸ばかり余りて見ゆる、薄色のこまやかなる一襲、掻練などひき重ねて、顔に袖をおしあてて、いみじう泣く。弟なるべしとぞ推し量られ侍りし。
 また若き人々二三人ばかり、薄色の裳ひきかけつつ居たるも、いみじう堰きあへぬ気色なり。乳母だつ人などはなきにやと、あはれにおぼえ侍りて、扇のつまにいと小さく、
  おぼつかなうき世そむくは誰とだに知らずながらも濡るる袖かな  
と書きて、幼き人の侍るして遣りて侍りしかば、この弟にやと見えつる人ぞ書くめる。さて取らせたれば持て来たり。書き様ゆゑゆゑしう、をかしかりしを見しにこそ、くやしうなりて」など言ふほどに、うへ渡らせ給ふ御気色なれば、紛れて少将の君も隠れにけりとぞ。
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