堤中納言物語009)はいずみ

 下わたりに、品いやしからぬ人の、こともかなはぬ人をにくからず思ひて、年ごろふるほどに、親しき人のもとへ行き通ひけるほどに、娘を思ひかけて、みそかに通ひありきにけり。めづらしければにや、はじめの人よりは心ざし深くおぼえて、人目もつつまず通ひければ、親聞きつけて、「年ごろの人を持ち給へれども、いかがはせむ」とて、許して住ます。
 もとの人聞きて、「今はかぎりなめり。通はせてなども、よもあらせじ」と思ひわたる。「行くべき所もがな。つらくなりはてぬさきに、離れなむ」と思ふ。さるべき所もなし。
 今の人の親などは、おしたちて言ふやう、「妻などもなき人の、せちに言ひしにあはすべきものを。かく本意にもあらでおはしそめてしこそくちをしけれど、いふかひなければ、かくてあらせ奉るを。世の人々は、『妻すゑ給へる人を。「思ふ」と、さ言ふとも、家にすゑたる人こそ、やんごとなく思ふにはあらめ』など言ふもやすからず。げに、さることに侍る」と言ひければ、男、「人かずにこそ侍らねど、心ざしばかりはまさる人侍らじと思ふ。かしこには渡し奉らぬを、おろかに思さば、ただ今も渡し奉らむ。いとことやうになむ侍る」と言へば、親、「さだにあらせ給へ」と、おしたちて言へば、男、「あはれ、かれもいづちやらまし」とおぼえて、心のうち悲しけれども、今のはやごとなければ、「かく」など言ひてけしきも見むと思ひて、もとの人のがり往ぬ。
 見れば、あてに児々しき人の、日ごろものを思ひければ、すこし面やせて、いとあはれげなり。うち恥ぢしらひて、例のやうにものも言はでしめりたるを、いと心苦しう思へど、さ言ひつれば、言ふやう、「心ざしばかりは変はらねど、親にも知らせで、かやうにまかりそめてしかば、いとほしさに通ひはべるを、つらしとおぼすらむかしと思へば、何とせしわざぞと、今なむくやしければ、今もえかき絶ゆまじくなむ。かしこに、『土犯すべきを、ここに渡せ』となむ言ふを、いかがおぼす。ほかへや往なむとおぼす。何かは苦しからむ、かくながら端つかたにおはせよかし。忍びて、たちまちに、いづちかはおはせむ」など言へば、女、「ここに迎へむとて言ふなめり。これは親などあれば、ここに住まずともありなむかし。年ごろ行くかたもなしと見る見る、かく言ふよ」と、心憂く思へど、つれなくいらふ。「さるべきことにこそ。はや渡し給へ。いづちもいづちも往なむ。今までかくて、つれなく、憂き世を知らぬけしきこそ」と言ふ。いとほしきを、男、「などかうのたまふらむ。やがてにはあらず、ただしばしのことなり。帰りなば、また迎へ奉らむ」と言ひおきて出でぬるのち、女、使ふ者とさし向かひて、泣き暮らす。
 「心憂きものは世なりけり。いかにせまし。おしたちて来むには、いとかすかにて出で見えむも、いと見苦し。いみじげにあやしうこそはあらめ、かの大原のいまこが家へ行かむ。かれよりほかに知りたる人なし」。かくいふは、もと使ふ人なるべし。
 「それは片時おはしますべくもはべらざりしかども、さるべき所の出で来むまでは、まづおはせ」など語らひて、家の内清げに掃かせなどする心地もいと悲しければ、泣く泣く、はづかしげなるをぞ焼かせなどする。
 今の人、明日なむ渡さむとすれば、この男に知らすべくもあらず。「車なども誰にか借らむ。『送れ』とこそは言はめ」と思ふもをこがましけれど、言ひやる。「今宵なむものへ渡らむと思ふに、車しばし」となむ言ひやりたれば、男、「あはれ、いづちにとか思ふらむ。行かむさまをだに見む」と思ひて、今ここへ忍びて来ぬ。女、待つとて端に居たり。月のあかきに、泣くことかぎりなし。
  我が身かくかけ離れむと思ひきや月だに宿をすみはつる世に  
と言ひて泣くほどに来れば、さりげなくて、うちそばむきて居たり。「車は牛たがひて。馬なむはべる」と言へば、「ただ近き所なれば、車は所せし。さらば、その馬にても。夜の更けぬさきに」と急げば、いとあはれと思へど、かしこには皆、あしたにと思ひためれば、のがるるやうもなければ、心苦しう思ひ思ひ、馬引き出ださせて簀子に寄せたれば、乗らむとて立ち出でたるを見れば、月のいとあかきかげに、ありさまいとささやかにて、髪はつややかにて、いとうつくしげにて、たけばかりなり。
 男、手づから乗せて、ここかしこひきつくろふに、いみじく心憂けれど、念じてものも言はず。馬に乗りたる姿、かしらつきいみじくをかしげなるを、あはれと思ひて、「送りに我も参らむ」と言ふ。「ただここもとなる所なれば、あへなむ。馬はただ今かへし奉らむ。そのほどはここにおはせ。見苦しき所なれば、人に見すべき所にもはべらず」と言へば、「さしもあらむ」と思ひて、とまりて、尻うちかけて居たり。
 この人は、供に人多くはなくて、昔より見なれたる小舎人童ひとりを具して往ぬ。男の見つるほどこそ隠して念じつれ、門引き出づるよりいみじく泣きて行くに、この童いみじくあはれに思ひて、この使ふ女をしるべにて、はるばるとさして行けば、「『ただここもと』と仰せられて、人も具せさせ給はで、かく遠くはいかに」と言ふ。山里にて、人もありかねば、いと心細く思ひて泣き行くを、男もあばれたる家にただひとりながめて、いとをかしげなりつる女ざまの、いと恋しくおぼゆれば、人やりならず、「いかに思ひいくらむ」と思ひゐたるに、やや久しくなりゆけば、簀子に、足しもにさしおろしながら寄り臥したり。
 この女は、いまだ夜中ならぬ先に往き着きぬ。見れば、いと小さき家なり。この童、「いかにかかる所にはおはしまさむずる」と言ひて、いと心苦しと見ゐたり。女は、「はや、馬ゐて参りね。待ち給ふらむ」と言へば、「『いづこにか泊まらせ給ひぬる』など仰せ候はば、いかが申さむずる」と言へば、泣く泣く「かやうに申せ」とて、
  いづこにか送りはせしと人問はば心はゆかぬ涙川まで  
と言ふを聞きて、童も泣く泣く馬にうち乗りて、ほどもなく来着きぬ。
 男、うちおどろきて見れば、月もやうやう山の端近くなりにたり。「あやしく遅く帰るものかな。遠き所へ行きけるにこそ」と思ふも、いとあはれなれば、
  住みなれし宿を見捨てて行く月の影におほせて恋ふるわざかな  
と言ふにぞ、童帰りたる。
 「いとあやし、など遅くは帰りつるぞ。いづくなりつる所ぞ」と問へば、ありつる歌を語るに、男もいと悲しくて、うち泣かれぬ。「ここにて泣かざりつるは、つれなしを作りけるにこそ」と、あはれなれば、「行きて迎へ返してむ」と思ひて、童に言ふやう、「さまでゆゆしき所へ行くらむとこそ、思はざりつれ。いと、さる所にては、身もいたづらになりなむ。なほ迎へ返してむとこそ思へ」と言へば、「道すがら、をやみなくなむ泣かせ給ひつるぞ。あたら御さまを」と言へば、男、「明けぬ先に」とて、この童、供にて、いととく行き着きぬ。
 げに、いと小さくあばれたる家なり。見るより悲しくて、打ち叩けば、この女は、来着きにしより、さらに泣き伏したるほどにて、「誰そ」と問はすれば、この男の声にて、
  涙川そことも知らずつらき瀬を行き返りつつながれ来にけり  
と言ふを、女、いと思はずに「似たる声かな」とさへあさましうおぼゆ。
 「開けよ」と言へば、いとおぼえなけれど、開けて入れたれば、伏したる所に寄り来て、泣く泣くおこたりを言へど、いらへをだにせで、泣くこと限りなし。
 「さらに聞こえやるべくもなし。いと、かかる所ならむとは思はでこそ、出だし奉りつれ。かへりては、御心のいとつらく、あさましきなり。よろづは、のどかに聞こえむ。夜の明けぬ先に」とて、かき抱きて、馬にうち乗せていぬ。
 女、いとあさましく、「いかに思ひなりぬるにか」と、あきれて往き着きぬ。下ろして、二人臥しぬ。よろづに言ひ慰めて、「今よりは、さらにかしこへまからじ。かくおぼしける」とて、またなく思ひて、家に渡さむとせし人には、「ここなる人のわづらひければ、折あしかるべし。あやしかるべし。このほどを過ぐして、迎へ奉らむ」と言ひやりて、ただここにのみありければ、父母思ひ嘆く。この女は、夢のやうにうれしと思ひけり。
 この男、いとひききりなりける心にて、「あからさまに」とて、今の人のもとに、昼間に入り来るを見て、女、「にはかに殿おはすや」と言へば、うちとけてゐたりけるほどに、心さわぎて、「いづら、いづこにぞ」と言ひて、櫛の箱を取り寄せて、白きものを付くると思ひたれば、取りたがへて、掃墨入りたる畳紙を取り出でて、鏡も見ずうち装束きて、女は、「『そこにて、しばし。な入り給ひそ』と言へ」とて、ぜひも知らず、きしつくるほどに、男、「いととくも疎み給ふかな」とて、簾をかき上げて入りぬれば、畳紙を隠して、おろおろにならして、口うち覆ひて、気まぐれに、したてたりと思ひて、まだらにおよび形につけて、目はきろきろとして、またたきゐたり。
 男、見るに、あさましう、めづらかに思ひて、いかにせむと恐ろしければ、近くも寄らで、「よし、今しばしありて参らむ」とて、しばし見るもむくつけければ、いぬ。
 女の父母、かく「来たり」と聞きて来たるに、「はや出で給ひぬ」と言へば、いとあさましく、「名残なき御心かな」とて、姫君の顔を見れば、いとむくつけくなりぬとおびえて、父母も倒れ伏しぬ。女、「など、かくはのたまふぞ」と言へば、「その御顔は、いかになり給ふぞ」ともえ言ひやらず。「あやしく、などかくは言ふぞ」とて、鏡を見るままに、かかれば、我もおびえて、鏡を投げ捨てて、「いかになりたるぞや、いかになりたるぞや」とて泣けば、家のうちの人もゆすりみちて、「これを、思ひ疎み給ひぬべきことをのみ、かしこにはし侍るなるに、おはしたれば、御顔のかくなりにたる」とて、陰陽師呼びさわぐほどに、涙の落ちかかりたる所の、例の肌になりたるを見て、乳母、紙押しもみて拭へば、例の肌になりたり。
 かかりけるものを、「いたづらになり給へり」とて、さわぎけるこそ、返す返すをかしけれ。
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