宇治拾遺物語(巻八 四)102敏行の朝臣の事

 これも今は昔、敏行という歌よみは、手をよく書きければ、これかれがいふに従ひて、法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。かかるほどに、にはかに死ににけり。我は死ぬるぞとも思はぬに、にはかにからめて引き張りて率て行けば、我ばかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか、心得ぬわざかなと思ひて、からめていく人に、「これはいかなる事ぞ。何事の過ちにより、かくばかりの目をば見るぞ」と問へば、「いさ、我は知らず。『たしかに召して来』と仰せを承りて、率て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる」と問へば、「しかじか書き奉りたり」と言へば、「我がためにはいくらか書きたる」と問へば、「我がためとも侍らず。ただ、人の書かすれば、二百部ばかり書きたるらんと覚ゆる」と言へば、「その事の愁へ出で来て、沙汰のあらんずるにこそあめれ」とばかり言ひて、また異事もいはで行くほどに、あさましく人の向ふべくもなく、恐ろしと言へばおろかなる者の眼を見れば、雷光のやうにひらめき、口は炎などのやうに恐ろしき気色したる軍の鎧兜着て、えもいはぬ馬に乗り続きて、二百人ばかりあひたり。見るに肝惑ひ、倒れ伏しぬべき心地すれども、われにもあらず、引き立てられていく。
 さてこの軍は先立ちて去ぬ。我からめて行く人に、「あれはいかなる軍ぞ」と問へば、「え知らぬか。これこそ汝に経あつらへて書かせたる者どもの、その功徳によりて、天にも生まれ、帰るとも、よき身とも生るべかりしが、汝がその書き奉るとて、魚をも食ひ、女にも触れて、清まはる事もなくて、心をば女のもとに置きて、書き奉りたれば、その功徳のかなはずして、かくいかう武き身に生れて、汝を妬がりて、『呼びて給ふらん。その仇報ぜん』と愁へ申せば、この度は、道理にて召さるべき度にもあらねども、この愁へによりて召さるるなり」といふに、身も切るるやうに、心もしみ凍りて、これを聞くに死ぬべき心地す。
 「さて我をばいかにせんとて、かくは申すぞ」と問へば、「おろかにも問ふかな。その持ちたりつる太刀、刀にて、汝が身をばまづ二百に斬り裂きて、おのおの一切づつ取りてんとす。その二百の切れに、汝が心も分かれて、切ごとに心のありて、せめられんに随ひて、悲しく侘しき目を見んずるぞかし。堪へ難き事、たとへん方あらんやは」と言ふ。「さてその事をば、いかにしてか助かるべき」と言へば、「さらに我も心も及ばず。まして助かるべき力はあるべきにあらず」といふに、歩むそらなし。
 また行けば、大きなる川あり。その水を見れば、濃くすりたる墨の色にて流れたり。怪しき水の色かなと見て、「これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ」と問へば、「知らずや。これこそ汝が書き奉りたる法華経の墨の、かく流るるよ」と言ふ。「それはいかなれば、かく川にて流るるぞ」と問ふに、「心のよく誠をいたして、清く書き奉りたる経は、さながら王宮に納められぬ。汝が書き奉りたるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書き奉りたる経は、広き野に捨て置きたれば、その墨の雨に濡れて、かく川にて流るるなり。この川は、汝が書き奉りたる経の墨の川なり」といふに、いとど恐ろしともおろかなり。「さてもこの事は、いかにしてか助かるべき事ある。教へて助け給へ」と泣く泣くいへば、「いとほしけれども、よろしき罪ならばこそは、助かるべき方をも構へめ。これは心も及び、口にても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」といふに、ともかくもいふべき方なうて行くほどに、恐ろしげなるもの走りあひて、「遅く率て参る」と戒めいへば、それを聞きて、さきだてて率て参りぬ。大きなる門に、わがやうに引き張られ、また頸枷などいふ物をはげられて、結ひからめられて、堪へ難げなる目ども見たる者どもの、数も知らず、十万より出で来たり。集まりて、門に所なく入り満ちたり。門より見入るれば、あひたりつる軍ども、目をいからかし、舌なめづりをして、我を見つけて、とく率て来かしと思ひたる気色にて、立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず。「さてもさても、いかにし侍らんとする」と言へば、その控へたる者、「四巻経書き奉らんといふ願をおこせ」とみそかにいへば、今門入るほどに、この科は四巻経書き、供養してあがはんといふ願をおこしつ。
 さて入りて、庁の前に引き据ゑつ。事沙汰する人、「彼は敏行か」と問へば、「さに侍り」と、この付きたる者答ふ。「愁へどもしきりなるものを、など遅くは参りつるぞ」と言へば、「召し捕りたるまま、滞りなく率て参り候ふ」と言ふ。「娑婆世界にて何事かせし」と問はるれば、「仕りたる事もなし。人のあつらへに従ひて、法華経を二百部書き奉りて侍りつる」と答ふ。それを聞きて、「汝はもと受けたる所の命は、今暫くあるべけれども、その経書き奉りし事の、けがらはしく、清からで書きたる愁への出で来て、からめられぬるなり。すみやかに愁へ申す者どもに出し賜びて、彼らが思ひのままにせさすべきなり」とある時に、ありつる軍ども、悦べる気色にて、請け取らんとする時に、わななくわななく、「四巻経書き、供養せんと申す願ひの候ふを、その事をなんいまだ遂げ候はぬに、召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふ方候はぬなり」と申せば、この沙汰する人聞き驚きて、「さる事やはある。まことならば不便なりける事かな。帳を引きて見よ」と言へば、また人、大きなる文を取り出でて、ひくひく見るに、我がせし事どもを一事も落とさず、記しつけたる中に、罪の事のみありて、功徳の事一つもなし。この門入りつる程におこしつる願なれば、奥の果に記されにけり。文引き果てて、今はとする時に、「さる事侍り。この奥にこそ記されて侍れ」と申し上げれば、「さてはいと不便の事なり。この度の暇をば許し給びて、その願遂げさせて、ともかくもあるべき事なり」と定められければ、この目をいからかして、われをとく得んと、手をねぶりつる軍ども失せにけり。「たしかに娑婆世界に帰りて、その願必ず遂げさせよ」とて、許さるると思ふほどに、生き返りにけり。
 妻子泣き合ひてありける二日といふに、夢の覚めたる心地して、目を見あけたりければ、生き返りたりとて、悦びて、湯飲ませなどするにぞ、さは、我は死にたりけるにこそありけれと心得て、勘へられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にて許されつる事など、明らかなる鏡に向ひたらんやうに覚えければ、いつしか我が力付きて、清まはりて、心清く四巻経書き供養し奉らんと思ひけり。
 やうやう日ごろ経、頃過ぎて、例のやうに心地もなりにければ、いつしか四巻経書き奉るべき紙、経師にうち継がせ、罫掛けさせて、書き奉らんと思ひけるが、なほもとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、この女のもとに行き、あの女懸想し、いかでよき歌詠まんなど思ひけるほどに、暇もなくて、はかなく年月過ぎて、経をも書き奉らで、この受けたりける齢、限りにやなりにけん、遂に失せにけり。
 その後十二年ばかり隔てて、紀友則といふ歌よみの夢に見えけるやう、この敏行と覚しき者にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方もなく、あさましく恐ろしう、ゆゆしげにて、うつつにも語りし事を言ひて、「四巻経書き奉らんといふ願によりて、暫くの命を助けて、返されたりしかども、なほ心のおろかに怠りて、その経を書かずして、遂に失せにし罪によりて、たとふべき方もなき苦を受けてなんあるを、もし哀れと思ひ給はば、その料の紙はいまだあるらん、その紙尋ね取りて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書き供養せさせて給べ」と言ひて、大なる声をあげて、泣き叫ぶと見て、汗水になりて驚きて、明くるや遅きと、その料紙尋ね取りて、やがて三井寺に行きて、夢に見えつる僧のもとへ行きたれば、僧見つけて、「嬉しき事かな。ただ今人を参らせん、みづからにても参りて申さんと思ふ事のありつるに、かくおはしましたる事の嬉しさ」と言へば、まづ我が見つる夢をば語らで、「何事ぞ」と問へば、「今宵の夢に、故敏行朝臣の見え給へるなり。四巻経書き奉るべかりしを、心の怠りに、え書き供養し奉らずなりにしその罪によりて、きはまりなき苦を受くるを、その料紙は御前のもとになんあらん。その紙尋ね取りて、四巻経書き供養奉れ。事のやうは、御前に問ひ奉れ、とありつる。大きなる声を放ちて、叫び泣き給ふと見つる」と語るに、あはれなる事おろかならず。さし向ひて、さめざめと二人泣きて、「我もしかじか夢を見て、その紙を尋ね取りて、ここにもちて侍り」と言ひて取らするに、いみじうあはれがりて、手づからみづから書き、供養し奉りて後、また二人が夢に、この功徳によりて、堪へ難き苦少し免れたる由、心地よげにて、形もはじめには変はりて、よかりけりとなん見ける。
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