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これやこの行くも帰るも
  別れては
    知るも知らぬも逢坂の関

Whoever comes in and out,
Friends and strangers alike,
It's here that everyone departs ―
Ausaka ― slope of encounter.

『小倉百人一首』010
これやこの ゆくもかへるも わかれては
 しるもしらぬも あふさかのせき
蝉丸(せみまる)
男性(平安初期)
『後撰集』雑一・一〇八九
都を離れて行く人も地方から帰って来る人も、
出立する旅人もそれを見送る人達も、
みんなこの場所を通って行く・・・
見知った人も見知らぬ他人も、
これを限りのお別れかもしれないけれども、
とにかくみんなここに出逢い、
そしてまた散り散りに消えて行く
・・・ここは「大坂(逢う坂)の関」、
出会いと別れの交差点。
【文法・修辞法】掛詞+歌枕
...modern Japanese/English part: Copyright(C) fusau.com 2009
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品詞分解
これ【此】<代名>
や【や】<間投助>
こ【此】<代名>
の【の】<格助>
ゆく【行く】<自カ四>連体形
も【も】<係助>
かへる【帰る】<自ラ四>連体形
も【も】<係助>
わかれ【別れ】<自ラ下二>連用形
て【て】<接助>
は【は】<係助>
しる【知る】<他ラ四>連体形
も【も】<係助>
しら【知ら】<他ラ四>未然形
ぬ【ぬ】<助動_打消>連体形
も【も】<係助>
 あふさか【】<名>・・・「逢坂・大阪」
 あふ【】<自ハ四>連体形・・・「逢ふ」
の【の】<係助>
せき【関】<名>



修辞法
掛詞
<あふさか>
1)「逢坂(大坂)」
2)「逢ふ」
歌枕
逢坂の関山城の国)
解題
 この作品は、日本で第二番目の勅撰和歌集『後撰集』に収録されたもの。
 初の勅撰和歌集『古今和歌集』(905)を契機とする和歌の隆盛の勢いを得て、951年に宮中の昭陽舎(通称「梨壺」)に、撰集に組み入れるべき和歌を選ぶ仕事のみを専門に行なう臨時の部署(「和歌所」)が置かれ、村上天皇の勅命を受けて、特別担当官(「別当」)藤原伊尹45番歌作者)のもと、新たな勅撰集に収めるべき和歌の選定役(「寄人」)に任ぜられた源順大中臣能宣49番歌)・清原元輔42番歌)・坂上望城紀時文(彼らには更に『万葉集』に訓点を施す仕事も与えられ、後代の人々からは「梨壺の五人」という二つ名をも与えられることになる)によって(953~958年の間に)撰進された『後撰集』(全20巻・1425首)は、収録作品とその作風に関しては古今の延長線上にある。その一方で、王朝文化の主役の座を漢詩から和歌が奪い取ることをかなり明示的に志向していた『古今和歌集』が、皇室関係者の主催する歌合せ等「晴れ」の場での詠歌を数多く収めていたのとは対照的に、貴族の間で個人的に交わされた「」の歌の贈答を多く含むあたり、和歌が平安貴族の日常を雅びやかに彩る文芸的みとして既に定着していたことを感じ取らせるに十分である。
 和歌が未だ文芸の主流を成していなかった当時に編まれた『古今集』は、収録すべき短歌の数の不足を補うために(というか、集めた短歌が「恋歌」ばかりに偏っていた傾向を是正するために)、編者自らが詠んだ歌を多数入集させざるを得なかった。全1111首中、紀貫之(105)・凡河内躬恒(62)・紀友則(46)・壬生忠岑(37)と、四人の編者の自作歌(250)だけで全体の23%を占めている。が、『後撰集』にはその編者「梨壺の五人」の詠歌は一首も含まれていない。新設されたばかりの「和歌所」の初の「寄人」に任ぜられた彼らには、天皇の勅命により編む和歌集に自らの作品を混入させることは「職権濫用」との意識もあったのかもしれない(・・・もっとも、このストイックな自制的態度は、これ以降の勅撰集撰者たちにはまるで引き継がれなかったが)・・・無論これは、素材となる短歌のストックがそれだけ豊富になってきたことの表われでもあろう。和歌の詠み手は、『古今集』当時とは比べものにならぬほど増えていたのである。以後、短歌は、宮廷文芸の中心としての地位を不動のものとするとともに、秀歌一つを以て詠み手の面目を施す名誉・栄達の手づるとしての社会的価値をも帯びるようになる。
 『後撰集』にはまた、長大な「詞書」を伴う歌が多いという特徴もある。これは『伊勢物語』に始まる歌物語の盛行に影響されたものと見ることもできる。が、もう一つ注目すべき事実として、この勅撰集には、その成立事情を述べる「序文」がない、ということがある。これらの特徴を根拠に、現存する『後撰集』は、正規版が宮中の火災により焼失したせいで(和歌選出過程に於ける参考資料としての長大な注釈付きの)草稿本がそのまま世間に流布してしまったものだ、との説もある。・・・が、この第10番歌の作者とされる「蝉丸」については、『後撰集』はあまり多くを語っていない:『逢坂の関に庵室をつくりて住み侍りけるに、行き交ふ人を見て』と、ただこれだけ。こんなことわざわざ書かずとも歌だけからでもこれが「逢坂の関」往来の人間模様に感動して詠まれたものであることは十分伝わるのだから、蛇足の感をえない詞書ではある・・・編纂作業過程での事務的な覚え書きがそのまま世間に流布してしまったもの、という説が、正鵠を射ているのかもしれない。
 さてこの歌、一見、調子がよいだけの「逢坂」ご当地ソングに見えるが、見る者が見れば、実に均整の取れた技巧歌である。その技巧の数学的なまでの緻密さも素晴らしいが、より驚嘆すべきは、その計算を微塵も感じさせずに、ただ声に出して読めばその数式の解が読み手の心にすーっと染み通るこの歌の自然体の計略、非作為的な作為である。リズムの陰にむロジックが、まるで隠し絵・し絵の如く読む者の心に漠たる影を投げ掛け、その影は幾度も口ずさむうちに心にしっかりと定着する。その隠然たるロジックを見抜くことが出来ぬままリズムもろとも見えないロジックに魅入られてしまった読み手の多くは、この歌を自らのお気に入りに上げつつも、その魅力を言い当てることはできない・・・ただ「何となく、好き」ということになる・・・これはそんな歌なのである。
 冒頭にあって威勢良く人目を引く「これやこの」は、文法構造的には結句の「逢坂の関」に掛かる。現代語で言えば「これや、これや、これでんがな!これぞまさしく逢坂の関ですがな!」といった感じ。殆ど初句切れに近い独自の存在感を持つこのフレーズは、独立した感動詞的なアイ・キャッチャーとして機能させようとして初句に置かれたもの、とも見えるが、その実、緻密錯綜構造の一環として用意されたものであることが、後続部の綿密な検討を通して明らかになる。
 「行くも帰るも」は「行く人も帰る人も」の略。連体形(行く/帰る)が直後に従えるべき被修飾語(名詞)の意味を内包して「連体形+見えない名詞」の資格を持つ「準体言」または「準体法」と呼ばれる言い回し。散文でも普通に用いるが、織り込める文字数に制約のある和歌の中では特にその必要性は高い。
 「行く」と「帰る」は、当時の首都「京都」を中心に往来の方向性を表わす言い回しで、列車の時刻表的に現代語に換言すれば「下り/上り」(・・・もっとも、現代の「下り/上り」は「東の京都」たる東京都を起点に据えてのものであるから、古典時代の「京上り/東下り」とは方角が逆になるが)。「都を離れて地方に行く者/地方から都に帰る者」の身分を確認し、通行を制限するための検問所が「逢坂の関」。現代の京都府と滋賀県の境界にある「逢坂山」 ― 東海道と中山道(中仙道・・・当時は東山道)の通る東西交通の要衝 ― に設けられたこの関所は、平安時代には「畿内の東端」として意識され、重要な歌枕として数々の和歌に詠み込まれている。
 その「行く(人)も帰る(人)も」、「別れては」道の彼方に消えて行く場所が「逢坂の関」、というのが通り一遍の読み方・・・だが、これではこの歌の理解としては完全ではない。この中途半端な理解の上に立てば、後続の「知る(人)も知らぬ(人)も」の解釈は「見知った友人も、見知らぬ他人も」で終わりである・・・その意味は確かに表わしている「知るも知らぬも」ではあるが、この語句には更に重要な役割がある:直前の「別れては」(別離)と、後続の「逢坂の関」に含まれる「(また)逢(ふ事)」(再会)とを ― より正確に言えば「今生の別れになる」か「再度の巡り逢いがある」かの可能性を ― 共に目的語として複層的に掛かる「知る・知らぬ」という共通構造である。
 文言上っ面で回すだけの文法解釈からは、この錯綜構造の中に込められた意味は浮上しては来ない。詩人的感性のみがその絡繰りを明瞭に見せてくれるのである。・・・考えてもみるがよい、ここは異国への玄関口である。京都の往来のど真ん中ではないのである。そんな場所に、「見知った人」が偶然居合わせる確率は皆無に近かろう。「異国に旅立つ人と、それを見送りに来た友人」のみが「知る(人)」であって、それ以外は全員「知らぬ(人)」であるのが当然であろう。であれば「知るも知らぬも」は「見知った人も/見知らぬ他人も」以上の意味をも負うものでなければ軽すぎて話になるまい。そこに意味の重みを見出すべく、「これを限りの別れとなること(第三句:別れては)/また逢うこと(第五句:逢坂の関)」を前後に目的語として従える錯綜構造の中核を成すのがこの第四句の「知る/知らぬ」である・・・と捉えるのが(文法構造の変則性を軽々と乗り越える)詩的感性というものである。自らも能く詩を詠む者なら、この読み解きはさほど難儀な芸当ではない:が、自らこれだけの詩を詠むことは至難のである・・・それぐらいこの歌の詩的完成度は高いのだ。
 この錯綜構造の絡繰りに照らして第三・四・五句の相互関係を整理すれば、次のような意味が浮かび上がってくる:
第三句「この場所で別れてしまったその後は」
第四句「顔見知りの友人も/見知らぬ他人も」
第三句・第五句「今生の別れ」となるか「再度の出会い」があるか
第四句「わかっている人」も「わからずにいる人」も
第五句「この関所でみな一度は出会う」
・・・こうして再び意味は第三句以前へと立ち戻って行く:
第三句「そしてまた散り散りに消えて行く」
第二句「都を離れて東国に行く人も/東国から京都に帰って来る人も」
第一句「そう、これこれ、ここはそんな場所なのだよ」
・・・そうして、初句が第二・三・四句をまたいで、結句との最後の出会いを果たすのだ:
第五句「こここそ、かの有名な逢坂の関、なのだよ」
 初句が結句と別れたのは、出だしに威勢の良い掛け声(これや、この!)で人目を引くため、というような単純な意図ではなく、二・三・四句を巻き込んだ精緻な意味の錯綜構造を、初句と結句の間に織り込むためのの深い仕掛け、だった訳である。寄せては返し、また響く波のように、構造的にも音響的にも、計算され尽くしつつもその計算高さを飄逸なる律動の影に隠してまるで感じさせぬこの作り、凡百の歌詠み能く行ない得る芸当ではない・・・そしてまた、凡庸な歌読みにはその読み解きすら出来もせぬ仕事である。
 あちらと思えばまたこちら、各句相互が思いも寄らぬ意味の絡み合いを演じる複合的連動性を宿しつつ、一見それとは見えない流麗な音調的反復の一本道を軽やかに舞い踊るように感じられるこの歌の精妙な絡繰りを思う時、筆者の脳裏には、あの『古今和歌集』「仮名序」の中で、紀貫之が「喜撰法師」なる伝説の歌人(伝わる歌も一首のみ)について評した一言が浮かんでくる ― 「はじめをはりたしかならず」 ― どこが始まりでどこで終わるのか、どの句がどこにかかるのか、よくわからない・・・「喜撰」の歌(『小倉百人一首8番)に関しては明らかに否定的に解釈すべきこの貫之評が、「蝉丸」にあてはめられれば、詩人ならではの誉め言葉として響いてくる・・・いっそのこと、この歌も「喜撰法師作」として『古今集』(がよいが、『後撰集』でも悪くはない)に収められておれば、「六歌仙」の一人に数え上げる意味もないほど薄っぺらに感じられた「喜撰」の名が、だいぶ違った重みを持って感じられていたことだろうに・・・。それほどに、みどころがないだけに、それをめた時の感動の増幅はまたひとしおのものがある名詩である。音調に乗るだけでも愉しく、意味の流れを知った時には更にまた嬉しい、「一粒で二度美味しい(C)江崎グリコ」と評したくなる逢坂の名歌、なのであった。
 その至芸の一品の作者とされる「蝉丸」であるが、先に提示した『後撰集』の中途半端詞書が残るのみで、その人物像は謎のまま。世に残る伝説の類も、明らかにこの歌一首に根を持つと容易に知れる「事実無根」の代物揃いで、紹介するにも値しない・・・特に、上述の精妙なる自然体の作為の紹介の後では、興醒めを誘うばかりの浅知恵の産物でしかない・・・ものの、日本の民間伝説の「お里が知れる」浅薄さを思い知る上では意味のある参考資料となろうし、「蝉丸」に関しては他に紹介すべきエピソードが何一つないので、仕方がないので紹介しておこうか:
曰く
 「蝉丸は、逢坂の関の近くに粗末なを構え、関所に展開する様々な人間模様を見つめた、盲目の琵琶法師である」
・・・「様々な人間模様を"見つめた"」は「"盲目の"琵琶法師」に絡めてのこの筆者のシャレ(・・・それぐらい遊ばせてもらわぬことには、馬鹿らしくて付き合いきれない話だから・・・)だが、盲目か否かはさておき、これが「伝説の蝉丸」の最もポピュラーなヴァージョンである。『後撰集』の詞書に「琵琶法師」を加えて多少らませた話であるが、大方、後代の『平家物語』を通して人の世の栄枯盛衰を語り伝えた一群の身分賤しき芸能人からの、時代逆行の連想の産物であろう。
 因みに、「琵琶法師」という職能芸が成立したとされる時代は、文献学的には「平安中期以降」である・・・この事実を聞かされた途端に「あ、じゃあ、蝉丸は平安中期以降の人だ」と短絡する者は「似非科学者」。その行き当たりばったりの取って付け推論は、ほぼ400年に及んだ平安時代(794~1192)の約150年目に成立した『後撰集』(953~958)という事実を、知らず知らずに踏みにじることになる。そんな矛盾を強引に正当化しようとする者は更に、「実に、蝉丸こそ、後の世に『平家物語』を語り伝えた盲目の琵琶法師たちの、始祖・原形にあたるのだ」というような牽強附会に走るのである。
 英語世界には、この種の愚か者の有害行動を冷ややかに見下すこんながある ― "Lies beget lies." ― 嘘は更なる嘘を呼ぶ・・・本当は、「鎌倉時代に『平家物語』を語り伝えた盲目の琵琶法師たち」から、時代考証抜きの浅はかな連想を経て、「平安前期の蝉丸=盲目の琵琶法師」説が生まれたのである・・・本末転倒とはこういうのを言うのだ。そもそもの「根」があやふやな言の葉の、「枝・葉」の末節に剪定鋏を入れてジョキジョキやればそれで綺麗な真実の花が咲く、などという狂った発想の上で虚しく踊る帳尻合わせ主義者どもの口の端から、「蝉丸」の話は更なる「羽化・脱皮」の尾ひれ背ひれを付加され、どんどん化けて、極楽トンボ行き交う浮世の空を、キマイラ怪獣の如き異様な姿で飛び回ることになる:
曰く
 「蝉丸は、宇多天皇の皇子敦実親王に仕えた雑色(雑用係)である」
・・・一見みすぼらしく賤しい身分の者が、実はかつての身分卑しからぬ有識者の成れの果て、という日本人好みの流転の一典型。無論、文献学的証拠は皆無のヨタ話である。
曰く
 「蝉丸は、醍醐天皇の第四皇子である」
・・・上述の「天皇の息子の雑用係」を、「天皇の息子」へと格段に昇進させた(あるいは聞き間違えただけの)代物。ここまで来るともうれるばかりであるが、この種の変化を遂げたお化け話の数は、日本の伝説の中ではそれこそ数え切れないので、一々れていたのでは外れたの骨が元に戻る暇もない・・・ので、「はいはい、例のアレ、ね・・・」として軽く受け流すのが良策。
 ・・・と、ここまではまだ許せるのだ。根も葉もない愚かなる思い込みの産物とはいえ、それは単なる「事実への軽視と背反」に過ぎず、事実というものはどのみち人間どもに見下され裏切られてばかりいて理解者の少ない哀れな孤独を託つ存在なのだから、裏切り者の数が多少増えたとて、もはや溜息もつくまいから。
 許せないのは、上記の事実無根の「蝉丸伝説」を真に受けての、後代の文芸的捏造どもである。自作のショボい歌に「伝説の蝉丸」の名でを付けて平然と世に垂れ流した確信犯どもの非文芸的蛮行である。芸術にションベン引っ掛けて虚空に消えるセミの如きその無責任ならわしさが、どうしようもなく、詩的感性に障るのである:
曰く
 世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋もはてしなければ
 (伝、蝉丸作・・・『新古今和歌集』・・・1216年)
 逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよをすごすとて
 (伝、蝉丸作・・・『続古今和歌集』・・・1265年)
 前者は「蝉丸醍醐天皇の第四皇子」説を真に受けて、後代歌詠み気取りが放り散らした蝉のであろう:技巧のかけらもなく、「蝉丸」の名を気取るのもおこがましい。「とてもかくても」と「宮もわら屋も」の同音の繰り返しの部分のみ、この10番歌の「ゆくもかへるも」・「しるもしらぬも」を踏んでいるだけで「蝉丸作」とは、ふん、身の程知らずにも程がある!この愚かにして傲慢偽詠みの鈍い知性・感性には、当然、この解題で明かした本作の精緻なるredundancy(多重性)の絡繰りなど想像もつかぬものだったのだ・・・少しでもそれを感じておれば、虫ケラの身分で神業的名詩の主の名をる芸当など、畏れ多くて出来なかったである:「藁屋暮らしのみすぼらしいセミマル」(「丸/放る」・・・「クソ/大小便を垂れる」)だとればこその、10番歌の錯綜構造一つ感じ取ることも出来ぬセミプロ風情の、思い上がったなりすまし芸・・・反吐が出る。
 「逢坂の・・・」の方については、「蝉丸、と言えば、逢坂の関」という積年の連想一つに依拠した代物。「何か言ってるようで何一つ言ってない、のに、含蓄深く何か言外に感じさせているように感じられる、みたいなー」という例の「新古今調」の詠嘆・余情志向の失敗作の数多の実例の一つに過ぎぬ。言葉少なな構造的特性を悪用して、中味のない代物に霧・霞の如き霊妙なる実体を与えた気になって、真の知性・感性ある者を辟易させて止まぬ「ヘボ俳句」・「クソ禅問答」の放尿・排便の列に連なる、空疎なミソクソ三十一文字に過ぎぬ。過去の名人の「名」をるなら、原作を凌駕する「」を以てせよ、と憤然たる気分にさせられる・・・のは芸術の真価を知る者のみの憤懣であって、実は何も知らぬ名ばかりの歌読みが歌詠み気取れば、こうなることは必然の成り行き、という糞っ垂れな事実の肥溜めにまた一つささやかなセミのクソが滴り落ちただけ・・・に過ぎぬ・・・やや、言葉遊びが過ぎた、か。
 身の程知らずにも、真価をわかりもせぬ者の分際で、優れたものの真似などするものではない、というお話、ではあった・・・おっと、これは論理の矛盾か・・・我が身の程度も相手の真価も、わからぬからこそ平然と分不相応の迷惑行動を取ってしまう、というのがこの種の「セミのクソ」どもの生存様態なのだったっけ。
 最後のお口直しに、『新古今和歌集』収載の「伝、蝉丸作」をもう一つ:
 秋風になびく浅茅ごとにおく白露のあはれ世の中
 秋風に揺れる野原の低木の一本一本の上に危うげに乗っかっていて今にもこぼれ落ちそうな白露・・・の如く頼りなく儚いこの世の中、というこの歌の構成は、「自然の風物に言寄せて人の心の機微を詠む」という「新古今調」の(より具体的に言えば、藤原俊成の唱えた「幽玄」や、その発展形として息子の定家が唱えた「有心」の)理想を志向する作品としては、合格点を出してよい出来映えであり、その点では上の二つの「セミのクソ」とは大いに趣が異なる・・・詩人的には、これだけ大幅に趣が異なるというその一点だけからしても既にもうこれら三つを同一の「蝉丸」に帰することは出来ぬ、と感得することが出来るほどに、相対的に勝っている・・・が、それはあくまで「新古今歌」として優れている、というだけのこと。「古今時代」にあって「万葉調」の律動を感じさせる10番歌「これやこの・・・」に見られた踊るような音調的活力はこちらの歌にはまるでなく、到底同じ作者の作品とは感じられぬ。自然の近景(野原の草木の一本一本の上に乗った露の一滴一滴)へと顕微鏡的に視点を凝集した末に「世の中」という遠景へと一気に視野を広げてみせるその詩的パノラマ展開は、それだけ見れば素晴らしく思えるが、「新古今調」というパターンの上に乗せて見れば、類型的なmannerism(マンネリズム・・・俗名「マンネリ」)の産物として、その感動も幾分差し引いて考えねばなるまい。とにもかくにも、「平安前期の蝉丸」のものではなく、「鎌倉初期の(俊成・定家など)新古今詩人から平安期の伝説の歌人への挨拶状(homage・オマージュ)」と捉えるのが妥当な作品・・・名ばかりで中身のないウツセミ如き蝉丸二匹の放尿・排便だけでこの10番歌関連話を終えるのをめばこそ引用させてもらった「出来の良い贋作」である・・・あだや「真正蝉丸歌」のつもりで鵜呑みになされぬよう願いたい。
 もっとも、この10番歌にせられた「蝉丸」という名を持つ人物自体、実在していた証拠もないのだから、「偽蝉丸」という言辞もまた虚しいことになろう。従って、論理的に正しく言い直せば、「これやこの・・・」で始まるこの古今的技巧と万葉的音楽性を兼ね備えた抜群の秀歌の正統後継者を気取っても許される歌として認めてやるには、鎌倉時代の「伝蝉丸作」三首のいずれも役者が全然足りない、ということである。そして、その主張の詩的正当性を読者に理解してもらうことが出来たなら、この筆者の10番歌解題は大成功、ということになる。
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