解題
この歌は、次の歌の趣旨を踏まえての「本説取り」・・・あるいは「本歌取り」と言ってもよいであろうか:
有り明けの月だにあれやほととぎすただ一声の
行く方も見む(『
後拾遺集』夏・一九二・
藤原頼道)
夜明け前、周囲の
静寂を破るように、一声響いたホトトギスの声。暗い中にも、月の光がせめてまだ消えずに残っていてくれたらなあ。あの鳥が飛び行くその先を、この目で確かめてみたいのに。
元歌では、「
郭公の声だけ聞こえて、まだ居る気配、飛び去る先を確認できそうな期待はあるのに、月明かりがないから、確かめようがない」だが、こちら第81番歌では、「ホトトギスの鳴き声が聞こえて、その姿を確かめようとして、声のした方を見たが、既にもうその姿はなく、後にはただ有明の月だけが残っていた」という風に、その情趣を変えている。「声はすれども姿は見えず」から「声だけ残して姿を消した」へのすり替えは、「もうちょっとで見えそうなのに、見えないもどかしさ」から「見たくとも、もう見えない、過ぎ去ったものへの
慕わしさ」へ、と、感覚的にも少々高級な変化をもたらしてはいるが、ただそれだけでは役者が足りない。
そこで、「心残り」を演じさせたらこの人(?)に
敵うものはいないという自然界の
花形役者、「
歌枕」の王様たる「有り明けの月」の登場である。・・・何?「"有り明けの月"なら、
元歌の中からずっと出ずっぱってる」って?それはそうだが、しかし、
元歌の「月」は単なる「照明装置」、「ほととぎす・・・の
行く方」を確認するための物理的な役割しか演じない
代物だから、別段「有明」でも「
弓張り」でも「
望月」でも「ネオン」でも「サーチライト」でも「照明弾」でも何でもいいではないか。それに対する第81番歌の「有り明けの月」は、「夜空に(もし飛んでいれば)ホトトギスを照らし出す月明かり」としての物理的存在感と同時に、「もういないのか・・・残念だなあ」という「満たされぬ心の中を浮き彫りにする
隠喩」としての象徴的役割の重みをも、同時に宿しているではないか。両者のこの違いは、極めて大きいのである。
このように、「
元歌にはなかった
+αを加えること」をこそ、「本歌取り」(「本説取り」でもどちらでもよいが)の「
詮」(大事な部分)と見ていた
藤原定家にとっては、
元歌が「単なる音合わせ(あ・り・あ・け・の+つきだにあれや)」として使い
潰していた全く同じ「有り明けの月」の
文言に、新たな生命を吹き込むことに成功しているこの歌は、「同じ役者でも、舞台の上での使い方
次第、演出家の腕
次第で、こうも違って見えるのだよ」という見本、「付加価値を
旨とする本歌/本説取り」の好例として、『
小倉百人一首』に
載せる意味があったのであろう。
元歌の存在を知らずとも、それなりの情趣はある歌ではあるが、下敷きを通して見る興趣はまた別格である・・・こうした知識をひけらかすのは悪趣味であるが、そうした知識の上で遊ぶのが、この時代(『
千載集』・『
新古今集』)の
高踏派歌人達の習癖であった、という事実は覚えておくべきであるし、彼らの詩的愉悦の追体験をしてみるのも悪くはあるまい(・・・そうした排他性の文芸ゲームを好む/嫌うは、また自ずと別の話ではあるが・・・)。
作者
藤原実定(1139-1192)は、
藤原俊成の
甥(ということは、定家の
従兄弟)。祖父の
実能が
興した(笛を
家業とする)"
徳大寺"家の三代目で、官位の中でも(「
摂政・関白」以外では)最高位の左大臣まで昇進したので(祖父と区別する意味で"後"を付けて)「
後徳大寺左大臣」と呼ばれる。
平清盛が京都で我が世の春を
謳歌していた頃から、
源頼朝が鎌倉幕府を開くその年までの、平安末~鎌倉時代にかけての激動の世を、九条
兼実の下で京都朝廷/鎌倉幕府の取り次ぎ役として活躍し、53歳で病没した。
そうした時代背景までも織り込んで、「有り明けの月」の
名残惜しさが照らし出すのは、「鳴いて飛び去るホトトギス」のみならず、「泣いて見送る平安時代」でもある・・・とまで読むのは、
穿ち過ぎというものであろうか・・・?