解題
「さぁ、悲しがるがよい」と「月が私に物思いをさせる」なんてことがあるだろうか・・・ありはしない・・・けど、まるで「あんたのせいだ」とでも言わんばかりに涙を浮かべて月を
眺めてしまう、この私の心情は何なんだろう。・・・「月」の光の持つ不思議な
憂愁誘引作用を詠んだものとみればこうした解釈となり、この歌には普遍的な叙情性の陰影が宿ります。
一方、「月が私に"嘆け"と言う訳がない・・・のだから、私の嘆きの涙の原因は他にある・・・何のせい?・・・誰のせい?・・・あなたのせい、ですよ」という
迂遠なる解釈がお好みならば、この歌は「新古今調」を喜ぶ人々(のみ)が
喝采する理知的な恋歌となり、その普遍性は薄らいでしまいます。
・・・あなたは、どちらの解釈がお望みでしょうか?
和歌の世界に於いて、女流歌人の大天才が
和泉式部なら、男性歌人最大の巨星はこの86番歌の作者、
西行でしょう。
俗名は
佐藤義清(現代にもいそうな名前ですね)。
鳥羽上皇を警護する
北面の武士を辞して二十三歳で出家して「
西行」と名乗り、源平動乱真っ直中の平安末の日本の国を、東は
奥州、西は四国と、
花鳥風月を
愛で、人の心の機微を詠み込んだ歌を作りつつ
行脚して回りました。現存する歌は実に二千九十余り。歌の良さもさることながら、その諸国
行脚の遍歴も手伝って、伝説の歌人となりました。
その
西行法師、出家して仏門に入ったからには、俗世の感情は捨てて生きねばならぬはずなのに、なぜ叙情詩などを?・・・と安直な分類学で事を割り切ろうとするのは、勉強させられ過ぎの現代日本人の悪い癖で、現象面の
上っ面を
撫で回しただけで解った気になっては次の現象の皮相的処置に向かう、という、病める現代日本の大病院の三分間診療みたいなインスタント勉強法で身に付いた短絡的思考法では、平安末から鎌倉期にかけての出家の実情は、何も見えません。
土を耕してその収穫で生きて行く、という実りある人生を生きる
お百姓さんならともかく、農家の中でも長男以外で家計のたしになるよりむしろ圧迫になると感じられた男子だの、もう少しましな暮らしができそうな武士・貴族であっても貧乏な家の者や第一線を外れた者だのには、社会の本流の中にその生き場がないのが当時の悲しい現実。そんな彼らの行き場のない存在を引き受け、落ちこぼれた人々の
溜め池としてこれを受け入れたのが、仏門という名の社会
扶助制度だったのです。
そんなわけで、平安末期あたりの人々は、心の平安や
衆生の救済を求めて仏門に入る、というよりも、社会の主流から弾き出されてしまったのでやむを得ず法師になった、という色彩がかなり濃いのです。少なくとも、キリスト教の伝道者として
ストイックに
己れを律した西欧の宣教師と日本の法師を同列に置いて捉えるのは大間違いのもとです・・・そんな「**法師」の歌には、俗世にある人々のそれよりむしろ、やりきれず持て余した心の叫びが満ち
溢れています・・・当然でしょう:「法師」とは、満たされぬ人生を歩まざるを得なかった人の名に付く哀しき称号(・・・「
不如意」の類義語・・・)と言っても
満更外れでない現実が、当時はあったわけですからね。
この
西行の歌、
詞書によれば「
月前恋」の題で
詠まれたものだそうですが、これを「恋」の歌とだけ解釈するのも少々
味気ないと思います(『
千載集』では確かにそうなっているし、それはそれで正しいのだけれど・・・)。この歌の中の「物思ひ」は「
恋慕」よりも
遙かに普遍的な「
憂愁」を含み得るのだから、そこを重視していっそのこと「恋」の
部立てから外してしまう、というような
粋な計らいを、編者の
藤原俊成さんにはしてもらいたかったなあ、これが「恋」という狭い枠組みに閉じこめられてしまうのは惜しいなあ、と(私は)思うのだけれど・・・
俊成氏は、
迂遠な表現技巧を大喜びする「新古今」時代の代表的歌人なのだから、やっぱり「月の陰に隠れて見えない、つれない女性の影」をこそ
愛おしがった訳でしょうね・・・まぁ、彼が何を思おうが、我が何を感じるか/我が何を言おうが、あなたがどう感じるか、ただそれだけが歌の大事、ではあるのですけれども。・・・え?「恋」じゃないとしたら
部立ては何にするのか、ですって?・・・そうですね、「
雑」じゃやっぱり
味気ないし、「秋」に限った心情でもないから・・・そう、「
愁」、かな。(「月」でもいいけど)。そんな
部立を持つ
勅撰集はないけど、そこはそれ、歌は当人の心の見立てで味わうものですから。