解題
「
村雨」とは「通り雨」、一時的に降ってはさーっと引いて行く気紛れな秋~冬の風物詩である。その
時雨の
置き土産のような雨露が、木々の葉っぱをまだ湿らせて蒸発もせずにいる周囲には、早くもさぁーっと霧が立ち上り、やがて葉っぱを、そして木々を、更には山の全景を、白いベールで覆ってゆく。
時間と空間に寄せる視線の移り変わりを丹念に織り込んだ、細密な短歌である。その過程を図式化してみよう:
1)「
村雨(が降る)」
・・・この記述で、この歌は、三つの時間を同時に表象している:
1-A)通り雨が降る前の、晴れていた時間帯
・・・元々、この人は、外で(あるいは屋内でもよいが)何かを、していたのである・・・そこに
時雨がいきなり「ざぁーっ」と来たので、人は、慌ててどこかに雨宿りする(あるいは、外の雨を、意識し始める)・・・
1-B)通り雨が降りしきる間の、雨をやり過ごす時間帯
・・・この
間、人は、何も見ていない・・・雨をぼんやり見ようが、物思いに
耽ろうが、いずれにせよ外界の景色は、人の思念の対象外に霞んで、
一時、存在しなくなる・・・
1-C)通り雨が上がり、再び晴れる時間帯
・・・
時雨がいよいよ
小止みになり始めた頃から、人は、周囲の気配に意識の焦点を移し、雨上がりと同時に(
時雨前にしていた通りの)活動を再開する。
2)「露もまだ
干ぬ槙の葉(を発見する)」
・・・ここで歌の焦点が、時間から空間に移る。最初は、細密である:先程の
時雨で濡れた木々の葉の上に置いた小さな雨露に視点を置いている。
・・・「まだ
干ぬ」とあることから、ここで読者側の思念は「空間」から再び「時間」へと引き戻される:先程の雨の
降り止みから、ある程度の時間が経過していることを感じるからだ。晴れた途端に雨露が
干上がることはあり得ないのだから、そこそこ以上の(しかしさほど長くはない)時間がその間に流れ、その
間、この人にも、周囲の世界にも、それなりの動きがあったことが示唆される(どんな動きかは書いていないし、また問題でもない)。
3)「(
槙の葉に)霧立ちのぼる」
・・・ここで空間的焦点は、先程までの葉っぱから木々そのものへとズームアウトする:「
槙の葉」に「霧立ちのぼる」の記述が加わることによって。
・・・既に第三句に於いて「葉」よりも先に「
槙」が言われていた訳ではあるが、ここまでの意識の焦点はあくまで細密な「葉」に注がれており、大元の「
槙(の木)」はその背景に消失していた
筈である。そこへ第四句「霧立ちのぼる」が加わることで、視覚的焦点は背後の全景へと
パンフォーカスで引きに入る。
・・・この時点で、読者は再確認するのである:この木々が「
槙=
檜・杉などの建築用良材」であることを。建材としての
伐採を目的に、整然と、そしてすっくと、
真っ直ぐ天に向かってそびえ立つ、直線的な木々が、互い違いに地面に打ち込まれた
杭のように、延々と立ち並ぶその
木立の間の、
縦長の狭い網目のような空間を、地面から空へ、
此方・
彼方で、
次第に薄い白色の絵の具で塗り
潰すようにして、霧が立ち上り、あたりに立ちこめてゆく。
・・・立ちこめた霧があたり一面を包み込むまでには、まだしばらくの時間がかかるであろう・・・この詩は、しかし、その時間幅にまではもう関与しない:「やがてあたり一面は白いベールに包まれるだろう」という予言的
余韻を残して、この詩は終わる。最後に、これが・・・
4)「秋の夕暮れ」
・・・という時間の額縁の中に描かれた言葉の絵画であったことを読者に示して、この豊かな時間と空間の広がりを内包した三十一文字の短歌は終わる。
ここまで細密な詠み込みを可能にするほど条件の整った自然の情景が「実景」としてあったか
否かは怪しいので、これは恐らく「題詠=眼前にない状況を想像の中で思い描いて作った歌」であろう。『
新古今和歌集』(1210年代成立)の一特徴である「余情
溢れる時間・空間スケッチ」のこの秀作の作者は
寂蓮法師(1139?-1202)。同集6人の撰者のうちの一人であるが、残念ながらその完成を見ずに彼は没している。出家前の
俗名は藤原
定長。父親もまた出家して「
俊海」を名乗った僧侶であるが、その兄があの
藤原俊成(1114-1204)であった。その縁で、
定長は10歳頃に
俊成の養子となる。やがて
俊成に
実子(定家(1162-1241)は次男)が生まれたことなどもあり、
定長は三十代で出家して「
寂蓮」となる。別に、世を
儚んだ訳でもない。この時代、親(養父)の跡継ぎとしての出世の可能性が低くなると、人はしばしば、宗教界に活路を見出して"転身"したのであり、"出家"と言ってもさほど俗世離れした訳ではない。実際、
俊成その人もまた、1176年(62歳)には出家して「
釈阿」を名乗っており、この法名で以後約30年の余生を過ごしている(彼の
享年は91歳!・・・息子の定家も80まで生きた・・・藤原氏には、当時としては大変な長生きが多いのだ)。
この87番歌の最後は「秋の夕暮れ」の体言止めになっていて、これも典型的な「新古今調」だが、この「秋の夕暮れ」という
文言は特に多用されており、同集の中だけで数えても実に16首もある。その中でも特に世間で有名な三つの歌が、
所謂「
三夕の歌」。特にこれらが他を引き離す別格の秀歌、という訳ではなく、『
新古今集』に三つ連番で並んでいる、という付帯状況も絡んで有名になったもの、という点を差し引いて考えねばならない(実際、歌としての完成度で言うなら、この87番歌の「秋の夕暮れ」だって相当なものだ)が、「
寂蓮」・「定家」の義兄弟の話が出たついでとして、彼らの間に割って入る「
西行」のものともども、最後にまとめて紹介しておこう:
<
所謂「
三夕」の歌=『新古今・秋上・連番361-362-363』>
その1(秋上・三六一)
寂しさはその色としも なかりけり
槙立つ山の秋の夕暮れ
杉・
檜といった建築用良材が
真っ直ぐ整然と立ち並ぶ山には、色取り取りの
紅葉の
絨毯が秋の深まりを感じさせる
紅葉狩りのような
風情もない・・・にもかかわらず、秋の夕暮れにその
槙の山を
眺めているだけでも、こうしてしみじみと「もののあはれ」を感じるのだから、この季節の情趣は、木々の色に感じるものではなかったのだ・・・それは結局、心の色が見せる
寂寥感だったのだ。
・・・同じく
寂蓮法師の歌。この人は「スギ・ヒノキ」がよほど好きだったのか、それともこの第87番歌と同時に着想を得たものか?
その2(秋上・三六二)
心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮れ
俗世を捨てた法師という立場にある私の心にも、その哀感はおのずと感じられるなあ・・・
鴫がさぁーっと沢から飛び立つこの秋の夕暮れの景色は。
・・・"放浪の歌僧"
西行法師の作。「心なき身」という
文言は、この時代の"法師"に
被せるには少々わざとらしい:前述の通り、俗世で出世の見込がないから坊さんを名乗っただけの人が圧倒的に多かったのだから。そうして見ると、「法師だから、本来は感情に動かされてはいけないのだけれど・・・そんな私から見ても感動的だよ、この光景は」というのは実にしらじらしい
戯れであって、この歌にはその意味で「品格がない」。ここが「おフザケ・パート」である以上、結局、「
鴫立つ沢」の叙景が
醸し出す「もののあはれ」の一点に依拠する以外には、この歌が「真の秋の情趣を
詠う歌」になる道はないのだが、この情景にさほどの哀感が伴う訳でもなく、とどのつまりは「哀感たっぷりだねぇ、この景色・・・おっとっと、いけない、私は僧侶、こんなことしみじみ言うべき身分じゃないのだったっけ」という
面白味を狙った「
俳諧趣味」の
戯れ歌に過ぎず、これで「
三夕の一つ!」とは聞いて
呆れる・・・
所詮、日本の文芸界の「名物・名品・名人」などというものは「"迷"物・品・人」でしかない例が多い、という一例に過ぎまい。一例、ということで言うならば、この歌の
如きは「"
心"より"
躰"」の代表格の「
僧正遍昭」の次のような
戯れ歌と、「坊主という身分をダシにして遊んでいる」という観点から見て、
大同小異であることを確認されたい:
名に
愛でてをれるばかりぞ
女郎花われ落ちにきと人に語るな(『
古今集』秋上・二二六)
「
女郎花」とは何とも艶っぽい名だなあ・・・そんな
愛しい名を持って、枝も折れんばかりにたわわに咲く花を見ると、もはや俗界を捨てた身である私の心もくずおれて、思わずこの手に
手折っては、愛してやりたい気分になる・・・おっと、「
僧正遍昭、オミナエシの色香に
堕つ」などと、人にバラしてくれるなよ・・・。
その3(秋上・三六三)
見渡せば花も
紅葉もなかりけり浦の
苫屋の秋の夕暮れ
今、私は、平安時代の『源氏物語』の中で都落ちした光源氏が流れた先の、須磨の浜辺に立っている・・・が、どこを見渡してみても、作品中で「春・秋の花、
紅葉の盛りなるよりも、ただそこはかとなう繁れる陰どもなまめかし」などと書かれたような
風情ある景色は見当たらず、さびれた小屋の上に、寂しげな秋の夕陽が影を落としているばかりである。
・・・毎度お馴染み
藤原定家の、『源氏物語』「須磨」の巻からの本説取り。あちらの作品を通して、「(光源氏の
配流先という)
侘びしい土地柄の中にも、なおかつ漂うさりげない季節の
風情」に、万事が華やかだった古き良き平安の昔を思い描く「古典知識の下敷き」がある人が、実際にその須磨の地を、鎌倉時代の初めに訪ねてみたら・・・そこには既にもう何もない ― 寂しい秋の夕暮れがあるばかり・・・という情景を、定家自身が実際「須磨」に足を運んで詠んでいる訳でもなく、想像世界のヴァーチュアル旅歌として「題詠」している、というのがまた「新古今的」(実際に
彼の地で
詠まれたものだとしても、情趣としてはあくまで「イメージの歌」なのであるから、これは「須磨」以外の場所で
詠むのが、よい)。去り行く平安への
万感の想いを込めたレクイエム(鎮魂歌)としてこれを見る者にとっては、
堪らぬ(文字通り、耐え切れぬほどの痛切な)
郷愁を以て胸に響く歌であったろう。その後、江戸時代の太平の世の中で、「わび・さび(詫び・錆び)」趣味が流行すると、またこの歌も
持て囃されたが、「新古今」時代にこの歌が人々の胸に訴えた「味」とは、だいぶ違う「ただの茶の湯の渋い味」に成り下がっていたことは間違いあるまい。むしろ、昭和を通してかつて繁栄を誇った島国のあちこちに
破綻の秋風が吹く二十一世紀初頭の平成の日本人にこそ、お江戸のわび・さびとはまた違った味わいを、この「浦の
苫屋の秋の夕暮れ」に与え得る資格は、大きいのかもしれない(・・・彼らに、古典文芸の
嗜みがあれば、の話だが)。