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奥山に紅葉踏み分け
  鳴く鹿の
    声聞く時ぞ秋は悲しき

Feet deep in maple's autumnal carpets in the mountains,
Away from crowds along with distant voice,
Heart deep in sorrow with deer crying in solo.

『小倉百人一首』005
おくやまに もみぢふみわけ なくしかの
 こゑきくときぞ あきはかなしき
猿丸大夫(さるまるだいふ)
男性(c.893)
『古今集』秋上・二一五
秋の山は紅葉絨毯敷き詰め、
踏みしめるごとにふぁさふぁさと音がして、
奥深く分け入る我が身にも、
人里離れた物寂しさを感じさせずにはおかない
・・・そこにまた聞こえる鹿の声
・・・愛しい女鹿を恋しむ男鹿のものだろうか
・・・あぁ、彼も独り、我も一人・・・
自らの心の郷愁が彼方にこだまして、
何とも切ない秋の風情であることよ。
【文法・修辞法】係り結び
...modern Japanese/English part: Copyright(C) fusau.com 2009
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品詞分解
おくやま【奥山】<名>
に【に】<格助>
もみぢ【紅葉】<名>
ふみ【踏み】<他マ四>連用形
わけ【分け】<他カ下二>連用形
なく【鳴く】<自カ四>連体形
しか【鹿】<名>
の【の】<格助>
こゑ【声】<名>
きく【聞く】<他カ四>連体形
とき【時】<名>
ぞ【ぞ】<係助>
あき【秋】<名>
は【は】<係助>
かなしき【悲しき】<形シク>連体形・・・「ぞ」との係り結び
解題
 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿」の声を聞くためには、この詩の詠み手自身もまた「奥山に紅葉踏み分け」足を踏み入れねばならない。即ち、「奥山に紅葉踏み分け」は「鹿」と「詩人」の双方に懸かり、このフレーズを介したオーバーラップ(錯綜・共通構造)の二重性が、この歌の作りの肝となっている。
 「紅葉踏み分け/鹿の声聞く」境遇に身を置く詩人は、山中で何をしているのであろうか?色付く頃合いを見計らっての山歩きで、風流な「紅葉狩り」と洒落込んでいる貴人、ではあるまい。紅葉の賀は大人数でするもの、その宴席に彩りを添える色取り取りの紅葉に加え、寂しげな牡鹿の声(自然界で鳴き声を上げるのは、メスを求めるオス、と相場が決まっている)が聞こえてきた場合、満座の行楽客の反応は、お座なりな「秋の野山に鹿の声・・・うーん、風情があるねぇ」止まりであって、痛切に個人的な「秋は悲しき」にはなるまい・・・悲しみにひたり歌を詠む時、人は常に、一人きりなのである。
 では、この詩人は何故一人きり、奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞いて、秋の寂寥感に悲しみをらせているのであろうか?人里に居られぬ理由があって、山に籠もってひっそりと隠遁生活を送っている人が、独り身にもなおやかで生気に満ちていた山の夏が過ぎ、寂しい季節になったことを感じ、嘆じて、詠んだ歌かもしれない。あるいは単なる所用で山道を抜ける最中の旅人の感慨かもしれない。
 いずれにせよこの詩人は、独り身であろう。愛する誰かの待つ宿へと、いそいそ向かう人の叙情詩ではない。妻と別れて一人きりの寂しい独り寝の夜を嘆じた柿本人麻呂3番歌(あしひきのやまどりのをのしだりをのながながしよをひとりかもねむ)とこの歌を並べてみれば、両者の違いは歴然である。「やまどり」のは、本来仲良く暮らしているが、夜だけ別々に寝るのであるから、人麻呂の歌は、妻と別れて単身赴任共寝も出来ぬ長い夜を「不自然に寂しい」と嘆くもの。「紅葉踏み分け鳴く鹿」には、妻はない:愛する伴侶となってくれる牝鹿を求めて、独り身の寂しさを訴えて鳴くのであり、野山に響くこの獣の叫びは、それに共鳴する孤独な詩人の心のこだまなのである。
 足下に敷き詰められた鮮やかな紅葉絨毯という近景に張り付いた視覚的刺激から、山奥から響く牡鹿の声という広がりを持った聴覚的遠景へと聞き手のイメージを展開しておいて、奥山に独り在る寂しい境遇を鹿と詩人が仲良く分け合う構文上/心理上の錯綜構造で、「秋は悲しき」という内なる感慨へと集束させて締めくくる、これは完璧な技巧を配した秀歌の中の秀歌である・・・が、その精妙なパノラマ展開の仕掛けは、こうした解題を見るまで、殆どの読者には感じられまい・・・本当に優れた歌は、その技巧の絡繰りを読み手に感じさせずに相手の心のみを動かすものである。修辞法だの背景事情だのが偉そうに前景へと出しゃばってうるさく自己主張し、解釈のために大脳新皮質フル回転を要する横柄な歌など、ロクな代物ではない、と思ってよいのだ。
 上記の解題に水を差すやもしれぬ修正事実をも、やはり、紹介しておくべきであろうか。この歌は、実は「題詠」である。つまり、実際の山奥で詠まれたものではなく、奥山の秋の趣を題に、「是貞のみこの家の歌合のうた」として畳の上で詠まれた歌なのである。『古今集』では、この歌の直前に(編者の一人でもある)壬生忠岑の「山里は秋こそことにわびしけれしかのなくねにめをさましつつ」(秋上・二一四)が掲載されている。こちらの歌は第28番歌「山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば」(『古今集』冬・三一五・源宗于)によく似たところがある。これら三首はいずれも「かなし」・「わびし」・「さびし」と、感情を直接言葉にして訴えている点に於いては「古今的」というより「万葉的」であるが、殆ど何の技巧もない忠岑の歌、「人目も離れ/草も枯れ」の掛詞辛うじて古今調の言葉遊びが感じられる28番歌に比べて、「近景から遠景/色彩から音響/叙景から叙情」という多重構造をこうもさりげなく織り込んでいるこの5番歌の秀逸性は、飛び抜けて見事である。忠岑の歌は暖かい布団の中から障子越しに遙か彼方の山奥の鹿の声を聞いているだけの御座敷歌でしかないが、この5番歌は奥山を一人さすらう孤独な旅人の境地へと読み手を否応もなく引きずり込む本物の魔力を持っている。時間・空間を超えて「飛ぶ力」がそこに宿るか否か、それが、真正の詩と、単なる綺麗な言葉の羅列との相違である以上、この歌が現実には座敷の上で短冊の上に書かれただけのvirtual travelogue(架空旅行記)であるという事実は、この詩の価値を高めこそすれ、低めることにはならぬのだ。事実の羅列のつまらぬ旅行記の駄文よりも、夢と魅力に溢れた作り物の旅人の心の目を通してこそ、人は、自ら身を置くわけではない場所の姿を思い描きたがるものであり、良く出来た虚構の力を以て不出来な現実を飛び越える所業こそ、art(アート)・・・その原義は、nature(自然)の対義語としての「作り物」・・・なのである。
 『小倉百人一首』ではこの歌の作者は「猿丸大夫」とされているが、前述の『古今和歌集』(秋上・二一五)では「詠み人知らず」として紹介されている。そしてこの見事な歌を除いては、猿丸大夫の手になる歌はこの世にただの一首も残ってはいない・・・つまり、経歴不詳、その実在すらも疑問視される伝説の歌人、というわけである・・・というのにこの猿丸大夫は「三十六歌仙」の一人ということで「36人の伝説の名人の一人」扱いである。日本文芸史の"緩さ"を示す数多の例の一つであるが、そもそもの原因は(この歌を"猿丸大夫"作として『三十六人撰』に組み入れた藤原公任よりむしろ)『古今和歌集』「真名序」の中で「大伴黒主」について述べた次の一節にある:「大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。」(大友黒主の歌は、いにしえの猿丸大夫に次ぐもの/または/猿丸大夫の流れを継ぐもの、である)・・・この直後に「頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。」(大変面白い詩興はあるものの、歌体は実に田舎臭く、言うなれば、百姓が花を見て上げる驚嘆の溜息如き純朴さである)と続く。
 大友黒主は、同集「仮名序」に紀貫之が記した"近年の著名な歌人とその歌風寸評"の中で名指しで述べられている、というただそれだけの理由から「六歌仙」などという大仰な呼び名を頂戴している歌人の一人だが、そちらの解説文は「大伴黒主は、そのさまいやし。いはば、おへる山人の花のかげにやすめるがごとし。」(大伴黒主の歌は、雰囲気が高級でない。言うなれば、辺鄙な山里で労働に明け暮れる下層民が、花の下で束の間の休息を取るついでにその美しさを口から出任せに誉めた歌、といった風情である)となっていて、漢文で書かれた「真名序」とは異なり、「伝説の猿丸大夫に連なる歌人」の一節も、一片の誉め言葉(頗る逸興有り)も何もなしで、ただひたすらし(品がない)一辺倒・・・にもかかわらず、日本初の勅撰和歌集『古今集』の序文でその名を上げられた有名歌人六人のうちの一人ということで、古来、日本では「六歌仙」の一人の「歌詠み名人」として偉そうに罷り通っている訳である。脈絡も実質も何もかも無視して、ただ「有名」のみにき「無実」を顧みないこの文化的盲目体質たるや、単に恥ずべき事態などという形容では到底追いつかぬほどの病的迷妄ぶりではある・・・が、このあたりに関してはさすがに藤原定家弁えていて、『小倉百人一首』の中には黒主の歌など一首も入れていない・・・「六歌仙」だの「六大学」だの「御三家」だのといったいかにもそれらしい物言いは、物事の本質に盲目の衆生だけが依りすがる頼り無げなに過ぎぬ代物であって、本筋の文化人の意識のフィルターにかかればいとも簡単に濾過され消え去る不純物を多分に含むものであることを、この事実は示しているであろう。
 因みに、『古今集』に入集している大伴(大友)黒主の歌は以下の4首:
 春さめのふるは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ
(春下・八八・・・伝本の「一本」に黒主の作とある、という扱い)
 思ひいでて恋しきときははつかりのなきてわたると人知るらめや
(七三五・・・「会うのにはばかりがある人に恋して、その人の家のそばをうろうろしていたところに、カリが鳴いたのを聞いて読んだ」とある)
 鏡山いざたちよりて見てゆかむ年へぬる身は老いやしぬると
(八九九・・・ある人が言うには、黒主のかもしれないとのこと、という扱い)
 近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳
(一〇八六・・・当時の醍醐天皇の大嘗会で、末永き御代の繁栄を言祝ぐ歌として詠んだもの、とある)
 こうして見ると、黒主という人には、自然の風物に絡めた歌を詠むという体質が色濃いようである。が、引き合いに出した自然の景物が、自身の心情と絶妙の融合・調和を見せた秀歌となり得ている、とは言い難い。「春雨」を「散る桜を惜しむ涙」に例えてみたり、「鳴き渡る初雁」に「自らの恋情」を仮託してみたりしてはいるけれども、いずれも取って付けの感が強く、「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」に於ける叙景/叙情の精緻錯綜が生み出す感動には比すべくもない。その点から言えば、「真名序」の「黒主の歌はいにしえの猿丸大夫の後をつぐもの」という記述を逆に辿って、この秀歌を「黒主の歌風の祖先たる猿丸大夫」の作とするのには、大いなる違和感を抱かざるを得ない(実際、『古今集』でのこの歌の扱いは「よみ人しらず」であって、「猿丸大夫」の名はどこにもない・・・「真名序」に於ける猿丸/黒主相関図に鑑みれば、この秀歌を貶めぬためには妥当な措置であったと言える)。
 さて、この歌が詠まれたという「是貞親王家歌合」であるが、これは、是貞親王の弟である宇多天皇が『新撰万葉集』(上巻は893年に菅原道真により成立。下巻の成立は道真死後の913年)を編むのに先立って、兄の親王に依頼して秀歌を集めるべく開かれたものとされ、参加者の中には壬生忠岑凡河内躬恒紀友則藤原敏行大江千里文屋康秀文屋朝康といった錚錚たる歌人が居並んでいる・・・その中にあってもこの「おくやまに・・・」の歌は、異彩を放つものとして歌人の面目を施したことであろう・・・にもかかわらず「詠み人知らず」であるのがいかにも不自然である・・・こうした場合、可能性として考えられるのは次のようなことであろう:
1)実際には作者はこの歌合せには参加していなかった。
・・・先述の如く、『古今集』でのこの歌の直前歌は、壬生忠岑の「やまざとはあきこそことにわびしけれしかのなくねにめをさましつつ」(秋上・二一四)であり、この歌が「是貞のみこの家の歌合のうた」とされているが、これとよく似た詩興の歌ということでたまたま編集過程で並べられていただけのこの二一五番歌が誤って「是貞のみこの家の歌合のうた」に組み入れられてしまった、という事態も、想定できぬことではない。だとすれば、上記の参加者以外でこれほどの歌を詠める歌人ということになると・・・やはり紀貫之か?そうなると今度は、彼自身が呼ばれたわけでもない歌合せだったので、後日に作って忠岑のと並べてはみたものの、仕方なしに「よみ人しらず」とせざるを得なかった、というシナリオも浮かんでくるが・・・実際のところはまるでわからない。確実に言えることは、この歌の作者は「貫之級の実力者」である、ということだけである。
2)作者の官位が低すぎるため、「人数のうちにも入らない」扱いを受けてしまった。
・・・我が国で短歌が文芸の主役となり、秀歌一つを以て歌人が現世的栄光に浴する(契機を得る)ほどの重要性を持つに至ったのは、『古今集』成立(905年)以降ある程度の時間が経ってからのことであるから、893年以前の歌合せでは、秀歌の詠み手素性が散逸してしまうのも珍しくなかったのかもしれない、という推論である。実際、今日では史上最高の歌詠みの一人とされている「西行法師」も、勅撰集入集を果たした初作品(身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ)の『詞花集』収載時には無名の僧として「よみ人しらず」の扱いを受けている(昔も今も、この国の連中は、実など見ずに名にくのだ)し、『万葉集』の歌の殆どは詠み人知らずであり、それに擬した『新撰万葉集』の採録歌を集めるための歌合せなので、作者名はさほど重視されなかったのかもしれない。
・・・が、官位の低さで言えば、同じ歌合せに参加した『古今集』に名の残る歌人達の多くも同様であって、歌才故に身分を越えて詠歌を求められた人々が当時既に大勢おり、その歌は知られていても政治的経歴は不詳という場合は多い。そしてまた、そもそもが高貴な方の邸宅で開かれた公的色彩の濃い歌合せに参加していながら「身分卑しきにつき、詠み人知らず」として片付けられてしまう、というのは、いかにも不自然に思われる。
3)作者の名は実はわかっていたが、政治的な理由から「詠み人知らず」として有耶無耶にボカされてしまった。
・・・時の権力側から見て政治的に好ましくない立場に身を置く歌人の場合、その歌自体の優秀性によって歌集に採り入れられることになっても、「詠み人知らず」として作者の正体を伏せるのはよくある事である。著名なエピソードとして、十二世紀後半、平家が都落ちする際に、藤原俊成師事する歌人でもあった平忠度が彼の屋敷を訪れ、「いずれ勅撰和歌集が作られる際には、我が歌の一首なりとも収載していただければ、草葉の陰から師匠をお守りするつもりです」と言い残して託した「さざなみやしがのみやこはあれにしをむかしながらのやまざくらかな」の歌を、後日俊成が『千載和歌集』に収める際、平氏が朝敵となった政治状況を配慮して「詠み人知らず」とした例がある。
・・・ともなると次に気になるのは、その「政治的理由からその名を伏せておくべき」優れた歌人とは誰か?ということである・・・が、このあたりの推理は、好きな人には面白かろうが、所詮詮無き芸当であろう。直前まで栄華を極めていて、歌集成立期には失脚した有力な文化人、ということで真っ先に思い浮かぶのは何と言っても「菅原道真」であるが、彼は懸案の『新撰万葉集』上巻の編者そのものであるから、この推論もおかしかろう。それに、道真は何よりもまず漢詩人であり、和歌の詠み手としてはこの歌の作者に擬せられるほどの技巧を有していたとは評せない。というよりむしろ、彼自身が「漢学派」の中心人物であって、漢詩こそ王道、和歌などそれより数段劣る低いもの、とみなしていたのではないかと思われるフシもある。朝廷の中枢に身を置く貴族男子は、その政治的実力が高ければ高いほど、漢詩を和歌より重視する傾向が強い。後代の藤原道長などもそのクチであるが、和歌が隆盛を極める以前のこの時代は特にその傾向が強かった。『古今集』に収載されている道真の歌二首はいずれも字余りで、さしたる技巧もなしにその場の座興で(ある程度まで漢詩的技法の助けを借りて)口から出任せに詠んだものの感が強く、決して秀逸とまでは形容できない。第一、もしこの二一五番歌が道真の作だとしたら、別の二首(二七四・四二〇)にはきちんと「菅原のあそん」と記してあるのに、この歌に限って「よみ人しらず」とする理由が見当たらない。
 ・・・などと、様々な憶測が飛び交うのも、その背後にある「伝説の猿丸大夫」の正体不明性の賜物であるが、作品の背景に作者を想像せねば成立しない感興(小野小町の歌などはその典型)とは異なり、誰の心にもある普遍的感覚に直接訴えかけてくる「脈絡無用」の歌なのであるから、ここは素直に「詠み人知らず or 詠み人問わず」で味わうのが妥当であろう。
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