解題
「"いにしへの"奈良の都」は、この歌の当時の首都「京都」から見た"旧都"の感覚です。「"けふ"
九重」には「"今日"
九重」と同時に「"京(きゃう)の都"の
九重の門に囲まれた宮中」の響きもあります。「にほひ」は現代語では「
嗅覚」
一辺倒の語ですが、古語では「視覚」の意もあり、その語源は「仁(アカ)+穂・秀(ヌキンデル)・・・目にも鮮やかな赤い色」。「
八重桜」なので「真っ赤」ではないでしょうが、当時の花見の対象だった「ヤマザクラ(・・・現代のソメイヨシノとは別の種類)」の白っぽい薄桃色よりは、かなり濃い色合いだったのでしょう。
吉野桜よりも遅れて咲くこの
八重桜は、平安時代には「奈良の桜」のイメージが強かったようです。鎌倉末期の
吉田兼好は『
徒然草』(一三九:家にありたき木は)の中で(『
枕草子』の清少納言の書き方を
真似て)こう書いています:「家にありたき木は、松、桜(・・・家に植えたい木は、松と桜)。松は五葉もよし(・・・松はゴヨウマツもよい)。花は一重なる、よし(・・・
花弁は一重のがよい)。
八重桜は奈良の都にのみありけるを、このごろぞ、世に多くなり
侍るなる(・・・
八重桜はかつては古都奈良にだけあった花なのに、最近は世間に増えてきた・・・のだそうな)。吉野の花、
左近の桜、みな一重にてこそあれ、
八重桜はことやうのものなり(・・・吉野の桜も、宮中左近の桜も、みんな一重であって、八重の桜とは奇妙な感じである)。いとこちたくねぢけたり(・・・ひどくうるさいまでにねじれた花である)。植ゑずともありなむ(・・・こんな花、植えなくてもよいだろう)。遅桜、またすさまじ(・・・遅れて咲く桜というのも、これまた
興醒めだ)。虫のつきたるもむつかし(・・・虫が付いたりするのも
鬱陶しい)。」・・・どうも
兼好法師は
八重桜がお嫌いだったようです(・・・それとも、平安の世の旧風に似ぬ鎌倉時代の風俗がキライだっただけ?)・・・ともあれ、平安時代の
八重桜が、京都の人々にとっては"珍品"に近い存在であったらしいことは伝わってくる話です。
多くの解説書の中で、この61番歌は、宮中の花見の
宴での
即興歌とされています。作者は「早詠み名人」
伊勢大輔。「いにし"へ"/や"へ"/ここの"へ"」のあざといまでの
踏韻といい、「や"へ"(8)/ここの"へ"(9)」の単純な数値・音調上の対比が「いにしへ(古)/けふ(今日)」の時間的対比と「奈良/けふ→きゃう=京(都)」の地理・政治的対比にオーバーラップする
錯綜的構造といい、小憎らしいまでの技巧を凝らしたこんな歌を、宮中満座の
宮人たちを前にさらりと即席で詠んでしまう当意即妙の機知、お見事です。
もっとも、
宴の前に「
八重桜」という御題は
予め知らされていたはずだから、純然たる
即興歌と呼ぶのには難がありそうです・・・彼女の和歌撰集『
伊勢大輔集』の記述を信じるならば、直前まで詠歌の大任を仰せつかっていたのはあの紫式部で、新参女房の
伊勢大輔に花をもたせてこの役を譲った、のだそうです・・・けど、物語に彩りを添える上でも、
伊勢大輔の
即興歌人としての性格を
際立たせるエピソードとしても、ここは「
当座歌」としておいた方が面白いと思います。
いずれにせよとにかく、この早詠みの才ゆえに、当時の宮廷文化の中でもかなり華やいだ位置に常に居り、数々の伝説を残した人が
伊勢大輔。
歌詠みの家系「
大中臣」家の人で、父親の
輔親もやはり
即興詩の達人として
誉れ高い人でした。
和歌が貴人の
主たる社交の具であった当時は、事前に知らされていた題目(「
兼題」)について考えに考え抜いた技巧を凝らした歌(それも多くは部下の誰かに代作させたやつ)を
得意気に披露して「この歌の仕掛け、わかりますかな?」とやる人は大勢いたけれども、その場の雰囲気に合わせてさっと歌を仕上げたり(「
当座」)、他人が詠みかけた
上の句(五七五)に対して気の利いた
下の句(七七)をぱっと詠み添える(「
連歌」)というような、機敏型の詩才の主は
希少性が高く、
珍重された様子が目に浮かびます。時を隔てた今から見れば「なぁに、この歌?」というような凡歌が、名高き歌人の傑作として取り上げられていたりする場合、添えられた
詞書きを通して作歌事情を確認すると、「なるほど、早いのが
取り柄の歌、だったわけね」と納得できることが結構多くあります。
そんな
即興系歌人の中でも、
伊勢大輔は速さと
巧さを兼ね備えた格別の存在。一条天皇の
中宮彰子の
後宮サロンに
出仕していた関係で、あの天才歌人
和泉式部とも親交があった女性です。「天性の
歌詠み」としての共通項で
括れば、結び付くのがとても自然に感じられる二人、やや毛色の異なるこの天才たちをわかり易く評すれば、「反応時間の速さで群を抜いた
伊勢大輔」、「
余韻の長さで時代を超えた
和泉式部」といったところでしょうか。「伊勢」の名は父の
輔親が伊勢神宮の
祭主だったことに由来(近代以前、伊勢神宮
祭主は「
中臣」/「
大中臣」氏の
世襲)。私生活では
高階成能の妻となり、娘たちには、
康資王母・
筑前乳母・
源兼俊母などの名立たる歌人がいます・・・血は争えぬもの、といったところでしょうか。もっとも、血統で歌才を語りだすと、困ってしまう人達が色々といるのですけれどもね(・・・次の
第62番歌の作者「清少納言」なども、本人も認める通り、その一人)。