解題
山奥へ分け入り、鹿の声を聞く・・・あの「伝説の
猿丸大夫」に
帰せられている(『
古今集』では"よみ人しらず"の)名歌「奥山に
紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき」(
第5番歌)を
彷彿とさせる歌である。
古今集の歌は「題詠」で、「秋の情趣」を感じさせる情景を空想の中で思い描いたものであるが、こちらの歌には ― これも元より「題詠」ではあるのだが ― より切迫した実感が伴っている。まず冒頭の「世の中よ」の「
頓呼法:apostrophe」による初句切れが、「あぁ、世の中よ!お前は、何と
住み辛い憂き世なのだ!」という非難と絶望の入り交じった悲鳴めいた響きで、この歌の「山奥」を、「俗世を
倦んだ人が、
遁世先として選ぶ場所」と感じさせる。
その「
遁世感」を決定付けるのが第三句「思ひ入る」である。これは「あれこれ悩んで自分の内面世界に没入する」の意味では単なる「深い苦悩」という心理語だが、この歌の「山奥」の脈絡を踏まえると、「悩んだ末に、人里離れた山の奥に分け入る」という行動語としての色彩をも帯びることになる。
そうしたパースペクティブの上で
眺めれば、第二句「道こそなけれ」もまた、単に物理的な「山奥へ分け入る時に、人の踏み慣らした道などない」というのと同時に、「俗世を嫌い、山奥に逃げ込んだとて、そうした
遁世の中に、心の平安を得られる確かな"道"が開ける保証など、何もない・・・何もないが、さりとてこのまま俗世に留まってもいたくない」という、俗世と
遁世との間で揺れ動くアンビバレントな(どっちつかずの不安定な)心理の揺らぎをも宿すことになる。
そうして、結局、思い切って山奥に分け入って、この人が耳にすることになるのは、「鹿の声」。前掲の「奥山に・・・」を強く意識した描写であろうが、これは「女鹿を求めて男鹿が立てる寂しい
恋慕の声」であり、「何かを求めてさまよう(しかし、得られず泣き続ける)」という、「満たされぬ"生"の苦悩」の
メタファー(
隠喩)である。この人は、そうした苦悩に充ち満ちた人間の世を捨てようと、思い切って山奥に踏み込んだのに、そこにもやっぱり、苦悩の声は、種族を越えて、響くのだ。
鹿も悲しい、我も悲しい、人里も山奥もみな辛い・・・結局、どこへ行けばいいのだろう?・・・どこへも行き場のない思いを、詩人は、
詩歌に込めるしかなかった。
詩人の名は
藤原俊成(1114-1204)。歌道の
大御所で、
後白河院の
院宣により『
千載和歌集』(1188)を単独で
撰進し、
後白河院の
皇女式子内親王の求めに応じて歌論書『
古来風体抄』(二巻)を
著し、『
新古今和歌集』(1210年代)の「
寄人」の一人(撰者ではない)でもあった。歴代
勅撰和歌集入集数は452首を数え、その息子
藤原定家(1162-1241)を初めとする「九条流」の優れた歌人達の歌の
師匠として、「
幽玄」を理想とする独自の歌風を打ち立てる・・・文芸用語に数理的解明は不可能かつ無益である:この第83番歌の情趣を以て「
幽玄」の実感を体得すればそれで
事足りよう。
藤原
北家でも
傍流(
長家流)に属する彼の「極官(=出世の上限)」は「
権大納言("名目上の大納言"・正三位)」、現実の
俊成は最終的に「
皇太后宮大夫(正三位)」に到ったが、父(藤原
俊忠。
権中納言まで進む)に10歳にして死別したこともあって、
官途には非常に厳しいものがあった。父の死後直ちに
葉室家の養子となり(
顕広と名乗った)、地方の
受領を転々とした後、再び
御子左家に戻っているが、"
俊成"を名乗ったのは1167年(54歳)、最高位の正三位に達した時のことである。貴族の時代は既に完全に行き詰まっており、硬直化した人事の枠組みの中での狭いパイの取り合いに於いては、
世襲ばかりがモノを言い、
俊成の歌道の名声を以てしてもこの有り様、文芸的実力が世俗的成功をもたらす世の中ではなかったのだ・・・古文によくある「歌徳説話」が美談めいて語るほどには、"芸は身を助ける"出世物語など、(貴人に目をかけられればそれ即ち幸福・成功、という女性や
奉公人ならともかく)官界に於いては成立し難いのが現実だったのである。
そうした実人生の苦悩から、この歌の底を流れる「出家・
遁世への
憧れ」は、現実の
俊成にも根強かった。一説には、
西行法師(1118-1190:
俗名は
佐藤義清、元は
鳥羽上皇の「
北面の武士」)の出家に影響されたという。61歳にして出家した
俊成は法名「
釈阿」を名乗り、その後約30年の余生を保ち、1204年に
享年91の
大往生を遂げている。長寿の者が多かった藤原家の中でも、ここまで長生きした人はさすがに珍しい。が、年齢だけを話題にしては歌人
釈阿も浮かばれまいから、最後はやはり歌に絡める形で、この"長寿の秘密"のエピソードを紹介して締めることにしよう。
<『平家物語』巻七・一五より:
忠度都落ちのエピソード>
栄耀栄華を誇った平家も、源氏の猛攻勢の前に敗戦に次ぐ敗戦を重ね、とうとう住み慣れた京の都を離れて、一門全員、
西国に落ち延びることとなった。そんな中、
俊成に
師事する歌人でもあった武将の一人、
平忠度が、都落ちの途上で
俊成の屋敷を訪れ、「いずれ
勅撰和歌集が作られる際には、我が歌の一首なりとも収載していただければ、
草葉の陰から
師匠をお守りするつもりです」と言い残した・・・そうした背景を持つのが次の歌である:
さざなみや滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
かつて
天智天皇が営んだ
束の間の首都の「滋賀の都」は、今ではもう荒れ果ててかつての
栄華を
偲ぶべくもない・・・けれど、山の桜だけは、今も昔も変わらず美しく咲いているものだなあ
(「さざなみや」は「滋賀」にかかる「
枕詞」)(「ながら」は「
長等山」との「
掛詞」)
元々は藤原
為業邸で催された
歌合せでの「
古里の花」の題詠であったが、結果的にはこの「滋賀の都」が、
平清盛が一時遷都した「福原」や、平家一門の
束の間の
栄華の
隠喩として響き、都落ちする
忠度の気持ちを託す別れの歌として好個のものとなったのである。
・・・この歌を、
俊成は
後日、約束通り『
千載和歌集』に入れるのである:「よみ人しらず」として。
時に、
釈阿は70歳・・・その後20年の余命が、
忠度の霊力の加護によるものか
否かはともかくとして、この逸話は
人心を大いに捉えたのであろう、室町時代の
能楽者世阿弥(1363?-1443?)も、この話を元に能楽『
忠度』を書き、「自作の歌が入選したのは嬉しい・・・が、"詠み人知らず"は無念である・・・これより先にもしまた入選することがあれば、我が名を明かしてもらいたいと思う」と、
忠度の霊に語らせている。・・・
俊成の息子定家が編んだ『
新勅撰集』(1235)以降、彼の歌が入集した際には、きちんと「
薩摩守忠度」の
クレジットが入るようになった(・・・という実話を基に
世阿弥の戯作は成立していた訳である)。