解題
「朝ぼらけ」は「朝+ほろ+明け」。"ほろ"は「ほろ酔い加減」の"ほろ"。酔ってへべれけになったりせずに、心地よく理性の束縛から徐々に解き放たれて行くあの感触を思い起こせば(思い出せれば)、「夜の闇から解き放たれた世界に朝の
曙光が徐々に満ちてくるさま」として「朝ぼらけ」を感じ取ることが出来るであろう。この歌はまずそうした「暗闇→
曙」の
漸進的な"時の推移"を以て始まる。
「
暗闇」・「
暗し」・「
暮る」は、色彩的に「くろ=
黒」に結び付く。対する「
曙」・「夜
明け」・「
明くる」・「
明し」のイメージカラーは「あか=
朱・赤」である・・・が、この歌の「朝ぼらけ」とともに眼前に現出する光景の基調色は、「赤」ではない;「淡い赤」ですらない ― 「白」である。それも「
濃密なる白」なのである。夜の闇の「黒」が取り払われたその下に、隠れていたのは「宇治の川霧」・・・これがその「一面、真っ白」の濃密な朝の色の正体である。
その朝の濃霧の白いヴェールは、しかし、夜明けの日射しが運んで来る温度上昇とともに、徐々に薄らぎ、消えて行く・・・まるで「ACT0:(前)夜」→「ACT1:(今)朝」への移行のために、背後で忙しげに行なわれていた舞台の模様替えを隠していたかのような真っ白い朝の
帷は、舞台装置のセッティングが完了し、出番を待つ役者たちがステージに出揃ったところで、静かにその幕を開けて行く。
そうして白い濃霧のカーテンが上がるにも、この宇治川の朝の幕は「ほろほろ」開けるのである(・・・今度の形容は「たえだえに」ではあるが)・・・一気に幕開けを迎えずに、ちらり、ほらり、と川面の
其処此処で、薄らいだ白の底から、ぽつぽつと顔を出すものがある・・・川の浅瀬の「
網代木」だ。漁獲用に川底に打ち込まれた
杭が、朝一番のオープニングステージに立ち並ぶ役者連のように、静かに出番を待っていたのだ・・・今はもう「うっすらと白い」ばかりの、早朝と朝との仕切り幕の向こう側で。
こうして、京都の夜は明け、宇治の川辺に朝が来る。
それをじぃーっと見守っていたこの歌の作者は、藤原
定頼(995-1045)、あの中古最大の文人藤原
公任(
第55番歌作者)の一人息子である(最終官位は正二位・
権中納言)。藤原
北家(=藤原
不比等の次男
房前を祖とする家柄)の中でも政治的な力は既に弱かった「
小野宮流(=藤原
実頼を祖とする家柄)」は、
公任の例に見る通り、
有職故実と学問の家柄となっていた。
公任の息子である
定頼もまた、和歌・書道・管弦の道で名を知られた文芸人である。
彼は、あの
小式部内侍の有名な
第60番歌「
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず
天の橋立」のきっかけになった男性で、あの歌は
定頼が宮中で彼女に「
歌合せの代詠を頼んだ母上の
和泉式部からのお返事はもう返ってきましたか?」と冗談半分で冷やかしたことへの、天才歌人の娘からの優雅なるしっぺ返しの
即興歌であった。あまりに見事な言葉の反撃を喰らったために、
定頼は返歌すら思い浮かばずにタジタジとなってその場を逃げ出した、というオチが付いて、このエピソードでは
専ら小式部内侍の小気味よい機略を引き立てるばかりのピエロ役を演じさせられている
定頼であるが、この第64番歌を見ても明らかなように、彼は「言葉の細密画」を描くことを得意とする歌人であって、「パッと見た人物の似顔絵を短時間で描き上げてプレゼントする
素描画家」のタイプではない。
例えて言えば、思索も言葉も深い知識人がテレビに出てもサマにならぬ(
僅か数十秒の出番で突出的に"晴れ"を演じねば絵にならぬ見世物小屋の中では、インスタントな
摘み食い型の事・物・人以外、活きやせぬ)のと同じことで、
即興の
冴えを以て(ましてやその道の天才の
伊勢大輔や
和泉式部母娘なんぞと)競わされたのでは、大方の
歌詠みの立つ瀬はないのである。テレビや学校の詰め込み勉強に代表される場当たり的な物の見方・受け入れ方に慣らされて、知性・感性の鈍った現代人は、即席・即決で安易に片が付く世界の外に刻まれた、価値ある足跡の数々を、見逃している。