解題
平安時代の終わりを象徴するようなこの歌には、作歌事情の解説がまず最初に必要であろう。
この歌の作者藤原
基俊(1060-1142)は、あの
道長の
曾孫にあたるが、
官途には恵まれずに従五位止まり。79歳にして出家して「
覚舜」を名乗り、83歳の長寿を
全うして世を去っている。幾多の
歌合せの「
判者」を努め、当時の歌壇では
源俊頼(1055-1129)と並ぶ
重鎮とも言える存在だったが、
俊頼が第五の
勅撰和歌集『
金葉集』(1126)の撰者であるにもかかわらず
官途不遇であったように、和歌の才が身を助けるという「歌徳説話」の出世話は、官界に於いてはおとぎ話に過ぎなかった。秀歌一つでは「高貴な人の目に止まることはあっても高い官位を射止めるには役者が足りない」というのは当たり前の話であり、「歌徳説話」の対象は、「ただ高貴な人の目に止まり、目をかけてもらえさえすれば、それが即ち世俗的成功や幸福に直結する」ような人物、即ち「貴人の妻になりたがっている女性」や「大人物に召し抱えられたがっている小人物」だけである。ただ、社会が
爛熟の度を加えるにつれて、「大物」に取りすがりたがる「小物」が増殖するのは世の常であって、大人物の
知己を得る方便としての「歌の徳」は、平安も末の世に近付くほどにまた高まって行ったのである。
この歌は、そんな硬直化した世の中にあって、権門貴族に取り入ることで何とか出世の道を開きたい、というせせこましくも涙ぐましい下級貴族の
溜め息が聞こえてくる作品なのである。但し、
基俊当人の栄達を願うものではなく、出家した息子(
僧都の"
光覚")を、「
維摩会」(
釈迦の弟子"
維摩"の教えを説く「
維摩教」を、陰暦十月十日から七日間連続で読む
法会)の「
講師」(高座に上って仏典を講義する僧)にしてほしい、と、当時の政界の最高権力者の藤原
忠通(
第76番歌作者)に、この作者は数年来お願いしていたのである(・・・当然、
賄賂などを贈って、であろう)。
が、
忠通は、幾多の謀略で知られた
海千山千の人物。時代も既に平安末期。宗教界に於ける栄誉を政界の実力者の
口利きでもぎ取ろうとする行為自体が、この時代の世の乱れを象徴している。この種の
情実のための陳情を幾つも受けては口先ばかりで流していたのであろう
忠通は、「悪いようにはしない」とか何とか口ではよいことを言っておきながら、全然願いを
叶えてはくれず、「もう駄目か」と
基俊が
諦めかかると、弱気な信者に向かって
清水観音が詠んだと伝わる次の歌を送っては、
基俊の
徒なる希望を
繋ぎ止めていたのである(恐らく、今後も私への
贈賄工作だけは続けなさい、という意思表示であろう):
なほ頼めしめぢが原のさせも草わが世の中にあらむ限りは(『
新古今集』
釈教・一九一六・よみ人しらず)
さしも苦しい境遇とはいえ、それでもなお私を頼りに思い続けなさい。この私が世の中に存在し続けている限りは、その恩恵は必ずあるものだと信じて待ち続けなさい。
この歌では「させも草」が「さしも=然しも・・・そういう状況ではあっても」につながり、「私はこんなに苦しいのに、あんなに必死にお願いしたのに、
観音さま、もう私の願いなど、あなたは聞き入れてはくださらないんですか?」と訴える相手に対して、「そんなにも苦しいとしても、それでもやっぱり、私を頼りなさい」と
観音様は
諭している・・・但し、
観音への信奉は、ひたすら心に願うだけでよかろうが、
忠通へのお願いは、何らかの贈り物と共にせねば相手に届かない;それも、もう、何年も続いているのである。
なればこそ、作者
基俊としては「
契りおきし=既に約束済みの」・「させもが露=苦しいのはわかるが、それでも私を頼り、任せておきなさい、私が政界に健在である限り、あなたの息子を
講師にさせるという恩恵はきっと施してあげるから」という"契約"を、
忠通との間で既に交わした気分でいるのである。「露」は「させも草・さしも草」の上に置く自然現象であると共に、「上位者から賜わる恩恵」の意につながる「
縁語」であるが、同時にまた「
儚いもの」の象徴でもある・・・作者の気持ちも実に
アンビバレント(恵まれる?/
儚い?のどっちつかずな心情)であったろう・・・それでもなおかつ、上位者の
情実に頼るよりほかに出世の見込みのない世の中で、
基俊はこんな「頼りない露のような恩恵」を「命=命綱、唯一すがるべき
手蔓」とするしかなかったのだ;それも、俗世の事ならぬ仏教界の「
維摩会」の裏工作の話である・・・まったく、何という時代であろうか。
そうして、何年目かのこの年も、「それでも、信じて、頼りになさい」という虚しい
空約束のみを命綱につないだ露のような
儚い恩恵への期待は、またも露と消え、今年の秋の「
維摩会」も終わってしまうようだ・・・と、
基俊が嘆きつつなおも露の望みを賭けていたその相手の藤原
忠通も、晩年には、数々の謀略のツケを払わされたか、失脚の
憂き目を見る・・・が、その10年以上前にこの歌の作者は既に世を去っていたし、
忠通の失脚にもめげずに彼の一族はその後も「
摂政・関白」の位を独占し続け、ついには明治時代まで「唯一無二の藤原摂関家」として生き延び続けたのであった。
この時代、正しい者や優れた者が日の目を見ることは
殆どなく、強い者、しぶとい者、あざとい者ばかりが、他者を
押し退け、世の中からむしり取るようにして、自分の取り分(あるいは、それ以上)を、力ずくで
分捕っていたのである。その争いには、一族もなければ父子もなかった。天皇が、父である先代の天皇(上皇・法皇)と戦争をする時代なのである・・・平安の世の終わりは近かった。
『
小倉百人一首』にこの歌を入れた
藤原定家も、その父
俊成も、文芸界の大功労者であったにもかかわらず、不遇の
官途を嘆き続けた平安末~鎌倉初期の悲しき非権門貴族である。この第75番歌は、当時の歌壇の
重鎮に敬意を表すると共に、"
同病相憐れむ"意味も込めて選ばれたような、何とも切ない響きを帯びている。