解題
「
斯く=かくかくしかじか、実は~なんです」だなんて、「えやはいふべき(いぶき)=どうして言えるものか、言えはしない」、そんな私の「燃ゆる思ひ=燃え上がる恋の炎」を、肝心のあなたは「
然しも知らじな・・・そうなっているとは、御存知ないでしょうね」・・・と、そういう歌です。
意味だけ書いちゃえば、なんともベタな恋の歌。まぁ、ラブレターなんてみんな
煎じ詰めれば「わたしはあなたが好きです!」なんだから、当たり前っていえばあたりまえなんだけど、それを
ストレートに言わずに相手に
スイートに訴えるためにあれこれ工夫を凝らすのが
恋文の味・・・なのに、この歌が頼る工夫といったら「
掛詞と
縁語」、現代風に言っちゃえば「ダジャレ」(もっと
侮蔑調で突っ放せば「オヤジギャグ」)。
「えやは言ふべき」に引っ掛かってる「
伊吹(山)」の名産「指焼草(さしもぐさ)」(
お灸に使う)は「然しも(さしも)=そのようには」を引っ張り出すと同時に「燃ゆる思ひ」の"ひ"に強引に"火"をつけて「燃え/火」の
縁語となって「さしも草」にバックファイアーで引火する、という仕掛け・・・
バチ バチ バチ ...プッシューん。 和歌としては(というか、和歌の修辞法の例文としては)こういうのもアリ、なんでしょうけど、ラブレターとしてこんなのもらっちゃったら、どうですかぁー?(実際、この歌の「
詞書」は「女に初めてつかはしける」だけど)・・・わたしならスーッと引いちゃう。ストレートな告白じゃなきゃだめ、ってことはないけど、こんなにも「あっち向いてホイ!」みたいなヨソ見目線のはぐらかしコトバの混入密度が濃すぎると、愛情はその分薄いんじゃないかしら、って気がして、いや。ポイ。さよなら、って感じ。・・・たとえば現代の日本で、『君と食ふ
今宵の飯は
スキヤ"キみ"。「
タレ?」と聞かずに「
ソースね」と言へ』(...COPYRIGHT fusau.com...)みたいなヘンテコ
駄洒落歌詠み掛けられて、喜ぶ女性なんて、いるかしら?・・・時代がちがうんだから、一概には言えないけど、「言葉(or行動)の一人芝居で暴走しちゃう自己完結的な男性」って思われちゃったら、女性がついて来てくれないのは、いつの世も同じなんじゃないかな・・・。
この歌の作者は
藤原実方。実際、女性方面では、あっち向いてホイ、こっち向いてオイ、と、とぉーーっても忙しかった人で、二十数名の女性との愛人関係に日々いそしんでおられた
殿方(らしいです、伝説だからアテにはならないけど)。あの紫式部と同時代の一条朝に仕えた
宮人だったので、『源氏物語』のモテモテ主人公「光源氏」のモデルをこの
実方に擬する人もいるけれど、ただ単に女出入りが多ければ
ヒカルゲンジになれるってものでもないでしょうから、私ならこんな説は軽くスルーしちゃいますけどね。
源氏の話はヨタ話として聞き流すとしても、この
実方にはもう一つ、有名な伝説が残っています。
恋をネタに技巧満載の一人遊び演じるこんな歌を
得意気に女に贈ってるくらいだから、和歌の方面には相当の自信がおありの
御仁だったらしく、折に触れて自慢の歌を詠んでは人々の
喝采を受けていたこの
実方サン、ある春の花見の
宴で、いきなり降り出した雨の中、次のような歌を詠んでみせます:
桜狩り雨は
降り来ぬ同じくは濡るとも花の陰に隠れむ(
『拾遺集』(1006)春・五十)
桜を
愛でるために野に出てみれば、
生憎雨が降って来た。(・・・訳者注:ここで、他の花見客の面々は、笠をさしたり、慌てて屋内に引っ込もうと駆け出したりするのですが、
実方は一人悠然と、傘もささずにすたすたと、桜の樹のほうへと歩み寄ります。で、こう言い放つのです・・・)どうせ濡れるなら、桜の花の木陰に宿って濡れることにしよう。
この歌は、その時の
実方の悠然たる態度と共に語りぐさとなり、"風流人
藤原実方"の名声はいよいよ高まります。
そんな中、この話を人づてに聞いた
藤原行成という人がおりました。彼はあの
50番歌(きみがためをしからざりしいのちさへながくもがなとおもひけるかな)作者(で、二十歳で若死にした)藤原
義孝の
忘れ形見の一人息子、清少納言の
62番歌(よをこめてとりのそらねははかるともよにあふさかのせきはゆるさじ)の詠歌のきっかけにもなった人で、当代
随一の
能筆家"
三蹟"の一人として「
小野道風・
藤原佐理・
藤原行成」の形でしばしば引き合いに出され、時の最高権力者藤原
道長に頼んで『
往生要集』を貸してもらい、その写本を作ったところ、
道長から「原本はあなたに差し上げるので、あなたの筆になる写本のほうをください」とおねだりされたというぐらいの書道の名人。
実方が
遊び人系の風流人なら、こちら
行成は実直型の文化人。生後すぐに父
義孝が亡くなって家系が没落、母方の祖父(
源保光)の養子同然になったりあれやこれやで、苦労の末に宮中の天皇お側近くにお仕えする立場に昇ってきた人だけあって、言うこともやることも
真面目な人だったようです。そんな彼が、例の
実方の雨中花見詠歌事情を聞いての一言が、これ:「歌は面白し。
実方は
烏滸なり」・・・和歌の方は面白い。が、
実方は馬鹿である(・・・訳者付記:"傘ぐらい、させばいいじゃん。じっさい雨降ってるんだからさ")。
行成さんがこう言った、という話は、
実方にも当然、伝わりました。それ以外にも、あれこれきっと、ソリが合わないどうしだったのでしょうか、ある時、ついに、
実方は、宮中でこの
行成と口論になり、アッタマきちゃった
実方は、
行成の
被っていた冠を
スッコーンと庭に吹っ飛ばしてしまいました。その時、
行成、少しも慌てず、乱れた髪を指で
撫でつけつつ、
主殿司(宮中の消耗品管理係)を呼び寄せて冠を取ってこさせて頭に
被りなおすと、
実方に向かって理路整然と、「何故、こんなことをするのです?大勢の人々が見ている前で、私に恥を
掻かせようとなさるあなたの御真意が、私にはまるでわかりません。その理由を聞かせていただいた上で、
後日、改めて、私からのご返答をさしあげようと思います。」・・・あまりに冷静でクソマジメな
行成の対応に、
実方の
喧嘩腰もすーっと引けてしまい、シラけた彼はスタスタとその場を後にしてしまいました。
この有り様を、宮中の物陰から見守っていた人物がおりました:ほかならぬ一条天皇その人です。彼は、
行成の冷静な対応に感心してこれを
蔵人頭(天皇に最も近いところでお仕えする側近中の側近)として昇進させる一方で、感情的な振る舞いに走った
実方には、「お前は、
陸奥の
歌枕でも見て参れ。」と、彼を宮中から追いやって閑職である
陸奥守へと左遷してしまいます。日頃、自らの歌の才をひけらかしていい気になっていた
実方に「
歌枕見て参れ」は、痛烈な一言ですね・・・。
結局、
実方は、失意の都落ちの3年後、
笠島の
道祖神前を、馬を下りずに馬上から見下ろしつつ通り過ぎようとしたところ、いきなり馬が引っ繰り返り、その下敷きになって
呆気なく圧死した(神様の罰が当たった)・・・という伝説が残っています。時に西暦999年1月2日、
享年は40歳前後(彼の生年が不明なので、死亡時の年齢はよくわからない)。
以上の話には、例によって、無根拠な創作も含まれている
筈です。どうせ伝説なので、その他
諸々のヴァージョンもついでに紹介しておきましょうか。
曰く:
1)
行成と
実方のいさかいの原因は、清少納言を
挟んでの恋の三角関係であった。
2)風流な
実方は、五月の節句には家々の屋根に
菖蒲を差す習慣がある京都に
倣って、
菖蒲の生えない
陸奥では代わりに「(歌に知られた)
浅香の沼の花かつみ」があるのだから、あれを屋根に
葺け、と命じ、以後、東北地方では五月の節句には「
菰」を屋根に飾るようになった。
3)
陸奥で
非業の死を遂げた
実方は、亡霊となって
夜な夜な京都の
賀茂川の橋の下に出没した。
4)宮中に戻れずに死んだ無念さから、
実方は
雀となって宮中に舞い戻り、
殿上の間の
台盤の上の食べ物をついばんで食べた。
・・・亡霊やらスズメやら、
随分な言われようですが、皮肉なもので、この悲劇によってこそ、後の日本文芸史の中で"
実方"の名は、"一度の過ちで人生を踏み外し、辺境の地に没した悲運の文化人"として、新たなる「
陸奥の
歌枕」となったのです。「
笠嶋の
実方塚」は、鎌倉初期の
西行も訪れ、江戸時代の松尾
芭蕉も『奥のほそ道』に彼へのオマージュを捧げる(pay homage to Sanekata)文章を残しています。
日本の伝説というのは残酷なもので、ひとたび地に落ちた人物を巡る話は、どこまでも底なしに
墜ちて行きます。どこまでが事実でどこからが虚構か、それはもとより、こうした話を巡ってはさしたる問題ではないでしょう:要は、「歌の才と華やかな女性遍歴に
溺れて浮き足だったその足下をスッコーンと
掬われて引っくり返った風流人の哀れな末路」というのが、教訓話(・・・人間、才能があっても、あんまりいい気になってはいけないよ・・・)としては格好のネタになったからこそここまで
流布した ― それが
実方の伝説の本質だ、と割り切って受け止めればそれでよいのです。また、あの
菅原道真の
太宰府遠流に代表される「貴人の都落ち」というものが、(原因の
如何を問わず)日本人の同情心にはとってもよく訴える題材でもあった、ということを知るためにも、この
実方伝説は格好の一例であると言えるでしょう。あ、あとついでに付け加えるならば、「恋の告白は変化球すぎちゃダメ」ってことも、この51番歌から得られる教訓の一つ、でしょうね。