解題
「
難波潟みじかき
葦の」までは、後続の「ふしの間」(より正確に言えば、「みじかき・・・ふしの間」)を導き出すために置かれた「
序詞」。意味の重みに
靡きがちな現代的感性から言えば、後続語句の導出役に過ぎぬ
冗長部にも思えるが、この歌の前半部に於ける「大阪湾の浅瀬に、
葦簀の材料にするために茎の大部分を刈り取られてしまった短く寒々しい姿で並んでいる
葦の刈り根」は、男に忘れ去られてしまった女の寂しい心象風景に通じるものがあり、単なる後続部の呼び水として受け流すことを許さない。(・・・
因みに、この19番歌の「(古歌の歌題・情趣という広義に於ける)
歌枕」をそっくりそのまま拝借しているのが、平安最末期に作られた
第88番歌「
難波江の
蘆のかりねの(一夜ゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき)」の前半部である)。
さて、その初句・二句の「
序詞」により導出される主意部の初めの「ふしの間」であるが、これは「節の間」と読めば「
葦の茎と茎との
繋ぎ目」の意として二句目との連関を成す一方で、「臥しの間」と読めば「二人寝床で愛の営みを交わす時間」という艶っぽい連想を生じ、その「間」もまた「時間的な"間"」と同時に「空間的な床の"間"」の意をも含むので、ここに「逢はでこのよを過ぐしてよとや」が絡むと、「私が一人こうしてあなたをじっと待っている床の間に、あなたは、ほんの一夜の短い愛の時間を過ごすためにすら、やって来てはくれないのですか?」という意味になる。「この"よ"」は「この"夜"」と「この"世"」の
掛詞となって、「虚しい独り寝の"夜"」と「冷え切った"恋愛関係"」の上に「かつての愛人に見限られて過ごす寂しい私の"人生"」という三重奏の哀調を
奏でることにもなるので、更にこの歌には「もう逢うこともない冷え切った元恋人どうしの関係になってしまうのですか?」・「愛する人に逢うこともできぬ寂しい
寡婦の人生を、あなたは私に生きろと言うのですか?」という切々とした響きが加わることになる。
豊富な技巧に切実な哀感が
籠もるこうした歌の場合、そこにどの程度まで共感を抱けるかは、
詠み手の言葉にどの程度の真実を感じるかに
依る。これが男性による女性仮託の題詠(例えば第
18番歌や
21番歌)であれば、ここまで迫真の嘆き節を聞かされても当事者意識の欠落に白けるばかりであるし、女性の手になる歌だったとしても、その女性の実人生が幸せに満ちたものであったと知った途端に、歌の興趣そのものが冷めてしまうものだ・・・なればこそ、芸術作品の作者への個人的詮索などというものは、出来ることなら、せずにおく方がよいのである・・・と断わり書きを置いた上で、この女流歌人のプロフィールについても触れておくことにしようか。
彼女は
藤原継蔭の娘で、「伊勢」の名は父親が「
伊勢守」であったことに由来する(
61番歌「
伊勢大輔」とは別人である)。彼女にはまた「伊勢の
御息所」という二つ名もある。「
御息所」とは、天皇の子を産んだ女性に対する敬称である:彼女は
宇多天皇(第59代)の
寵愛を受け、その
皇子を産んでいるのだ(・・・が、その子は
夭逝している)。そればかりではない:よりにもよってその後、前の夫の
宇多天皇の息子の
敦慶親王にも愛されてその妻となり、彼との間には女流歌人として大成する「
中務」を生んでいるのだ。そればかりではない:
宇多天皇の妻となる前には、その重臣
菅原道真を謀略によって
太宰府に左遷した呪いで
早逝(39歳)したという伝説で有名な当時の藤原長者の
時平及びその弟の
仲平との間にも(子供こそ産まなかったが)濃密な交際があったとされているのだ。・・・これほど高貴な男性達との間で浮き名を流し、
子種も
頂戴した彼女の実人生が、「ふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや」の嘆きに似つかわしいものかどうか・・・そのあたりの判断は読み手各人に委ねよう。
この歌の真実味はともかくとして、彼女の
歌詠みとしての力は本物であり、『
古今和歌集』成立とほぼ時を同じくして世に出た実在の女流歌人(同集への入集は実に22首で、四人の編者を除くと、
素性法師(37)・
在原業平(30)に次ぐ第三位の多さ、あの
小野小町の18首よりも多い)という事情は、彼女の華麗なる男性遍歴とも
相俟って、
後代、「伊勢」は「多情なる伝説の女流歌人」として幾多の物語や歌に絡めて引っ張り出されることになる(・・・もっとも、あまり多くの有名な男達と絡みすぎたせいで、時代を下れば下るほど例の「・・・が、晩年は不遇であった」なる
乾涸らびた儒教的しっぺ返しの
文言付きで語られる例が目立つようになるのが、いかにもこの国らしくて
興醒めを誘うのだが・・・)。あの歌物語の始祖『伊勢物語』の標題をこの女流歌人に(安直に)結び付ける者たちや、彼女こそが同作の作者だとする思い込みも、この国には比較的濃密に
流布していた、という事実もまた、むべなるかな、と言ったところである。