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滝の音は絶えて久しく
  なりぬれど
    名こそ流れてなほ聞こえけれ

Long gone is the roaring flow of legendary Daikakuji's waterfall.
Louder still is the remnant fame of its ever-lingering echoes.

『小倉百人一首』055
たきのおとは たえてひさしく なりぬれど
 なこそながれて なほきこえけれ
藤原公任(ふぢはらのきんたふ)
aka.大納言公任(だいなごんきんたふ)
男性(966-1041)
『拾遺集』雑上・一〇三五
京都大覚寺の滝は、今はもう水もれ、流れ落ちる音も
聞こえなくなって久しいけれど、
名瀑としての評判だけは今なお涸れずに、
広く世に流れていることであるよ。
【文法・修辞法】縁語+係り結び
...modern Japanese/English part: Copyright(C) fusau.com 2009
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品詞分解
たき【滝】<名>
の【の】<格助>
おと【音】<名>
は【は】<係助>
たえ【絶え】<自ヤ下二>連用形
て【て】<接助>
ひさしく【久しく】<形シク>連用形
なり【なり】<自ラ四>連用形
ぬれ【ぬれ】<助動_完了>已然形
ど【ど】<接助>
な【名】<名>
こそ【こそ】<係助>
ながれ【流れ】<自ラ下二>連用形
て【て】<接助>
なほ【猶】<副>
きこえ【聞こえ】<自ヤ下二>連用形
けれ【けれ】<助動_詠嘆>已然形・・・「こそ」との係り結び



修辞法
縁語
<音>
(滝の)「音」=「物理的音響」・・・「社会的名声」の意味の「音」として「名」につながる
<なり>
(たえてひさしく)「なり」(ぬれど)=動詞「成る」・・・動詞「鳴る」を介して「音」につながる
<ぬれ>
(なり)「ぬれ」(ど)=助動詞「ぬ」・・・動詞「濡る」として「滝」につながる
<流れ>
(名こそ)「流れて」=「世間に流布して」・・・「水が流れる」の意味の「流れて」として「滝」につながる
<聞こえ>
(名こそ流れて猶)「聞こえ」(けれ)=「世間に評判が鳴り響く」・・・「耳に音が届く」の意味の「聞こえ」として(滝の)「音」につながる
<なこそ>
「名こそ」(流れて)=「名前こそ鳴り響いて」・・・この歌が詠まれた嵯峨大覚寺にある「名古曽(なこそ)の滝」につながる・・・更に、この「ナコソの滝」から逆流して、初句の「滝の音は」が逆立ちして(同じ山城の国にある有名な)「音羽(おとは)の滝」の響きをもで始める
・・・「縁語関係」にある語句どうしは、ふつう、中間に「第三の語」を介して結び付く:
第27番歌:みかのはら「わき(分き→湧き)」て流るる「いづみ(泉)」がは
に見るように、直接にはつながらぬ「分き」と「泉」が、第三の語「湧き」を介して連想上結び付く、という形を取る例が殆どである。
・・・が、この歌に含まれる五つの縁語(この数それ自体も常ならぬ多さであるが)のうち三つまでもが、「第三の語」を介することなく「第三の意味」を仲立ちとして縁語が成立している極めて珍しい例である・・・公任さん、明らかに、狙った上でこれをやっている・・・「どうです、あなたによめますか?」(詠めやせぬ、のは無論のこと、読めもせぬ、のとちがいますか?)という訳である。
・・・縁語含みの歌とは、このように、詩としての興趣などそっちのけでナゾナゾごっこに打ち興じる色彩の濃いもので、詩的には大方、何の興趣もないものになる(・・・この歌の場合、その「あっさり感」が、「縁語詠み込みのためのごってりとした作為」を感じさせぬという点で、売り物になってはいるのだが)・・・この種の謎掛けをぶっつけられた場合、「何の意味、それ?私にはちっとも読めません(読み取りたいとも思いません!)」と言ってしまえば自分の知的度量の小ささを小馬鹿にされそうで怖い・・・ので、大方の人はただもうってこう言うしかない ― 「ほほぉぅ。これはお見事!」「いやぁ、なかなか・・・」・・・実際には何がどう見事なのか、なかなかどうしてどうなのか、自身もさっぱり解らずとも、そうした反応以外を一切許さぬ嫌味な性質を有しているのが「縁語ウタ」というやつであって、たとえ詩的に見るべきものがなくとも、「そんなナゾナゾかましたり、解けて得意な顔したり、そんなおアソびに、いったい何の意味があるわけ?つまらん歌!大っ嫌い!」などと正論ぶちかましても座が白けるばかり・・・そうして座を白けさせぬためにお愛想笑い相槌打つのを嫌がる人は、この種の「高度な知的遊戯に興じている」(つもりの)御仁の輪の中には、最初からお呼びでない、ということになる。
・・・なればこそ、「縁語」の類の遊戯性に走りたがる人物(たち)の存在は、真の詩人を遠ざける癌細胞となるのである。松尾芭蕉が単なる「俳諧」に打ち興じる連中とを分かって一人旅する気分になったのも、誰でも出来るが故に誰もが走る陳腐な「言葉アソビ」への御相伴に我慢ならなくなったからこそ、であろうし、腰から下がない「五七五」を詠み出しただけで、「腰折れ歌」に終わるのを怖れて下の句を付けなかったり、他者に「末やいかに?」などとお鉢を回しては、「よくもつけたり」とか「やや、をかし」とか言い合ってお茶を濁したりの「俳諧連歌」の緩ーい自己満足への反動あったればこそ、「十七文字の中には必ず季語を織り込むべし!」という殊更にキツめの戒律を自らに課すことで、「末も決まらぬただの腰折れ」ではない「マジメな俳諧」という矛盾をはらむ営みへと自分自身を追い詰めて行ったのであろう。
・・・とにもかくにも「縁語」というやつ、和歌には両刃の剣、なのである。
解題
 「滝の音は聞こえなくなってもう久しいが、その名だけは世に流れて今なお聞こえている」・・・ちょっと見には何ということもなくすらすら詠んである歌です・・・が、この場合、その「何ということもないすらすら感」こそが歌の詮(=要点)。
 実はこの歌、「縁語」含みなんです:それも五つも・・・二つはよくある「同音異義」型だけど、残る三つは「同語異義」型、つまりは、容易に見抜けぬ特殊な「縁語」・・・あなたに、それが、見抜けますか?(・・・と、作者は読者に謎掛けてるわけですね)
1)第一句:滝の「音」・・・ここでは物理的な「音響」の意味。
・・・これが第四句「名(こそ流れて)」に絡むと、同じ「音」でも社会的「反響」の同語異義に化ける。
・・・この「音」が「物理的音響」の意のみを表わすならその読み方は「ね」でOK ― というより「ね」の方がBETTER:「たきのねは」だと丁度五音だけど、「たきのおとは」だと六音で「字余り」になってしまうから ― でも、ここでの「音」は「社会的反響」の意をも響かせねばならぬのだから、「ね」ではなく「おと」と読まないとダメ。そうして字余りの「たきのおとは」の不自然さを敢えて自ら求めに行け、と詠み手は読み手に求めているわけ:それが出来る人の詩的感性には「音響/反響」の両者がきちんと響き合っているということ/字音上の帳尻合わせに傾いて「たきのねは」とやる人の耳には「社会的反響」は聞こえない、ということ。詠み手自らこの詩を読む時には、「たきのねは」でなく「たきのおとは」とわざわざ字余りで初句を読み上げることで、「ん?」という意識の波紋を聞き手の心に引き起こそうとする気配も感じられます・・・こうして初句からもう、詠み手は読み手/聞き手に挑戦状突き付けているんです。
2)第三句:(絶えて久しく)「なり」(ぬれど)・・・ここでは動詞の「成る」。
・・・これが初句「(滝の)音」に絡むと同音異義語の動詞「鳴り」に化ける。
3)第三句:(なり)「ぬれ」(ど)・・・ここでは助動詞「ぬ」の已然形
・・・これが初句「滝」に絡むと同音異義語の動詞「濡れ」に化ける。
4)第四句:(名こそ)「流れて」・・・ここでは「世間に流布して」の意味。
・・・これが初句「滝」に絡むと、同じ「流る」でも「水が流れる」の同語異義に化ける。
5)第五句:(名こそ流れて)「聞こえ」(けれ)・・・ここでは「世間に評判が鳴り響く」の意味。
・・・これが初句「(滝の)音」に絡むと、同じ「聞こゆ」でも「耳に音が届く」の同語異義に化ける。
 ・・・どうでした、五つのナゾナゾ、いくつ解けました?全部わかった人、どれくらいいるでしょう?
 しかも、その周到に手の込んだ謎掛けを、一見、何の作為も感じられぬ「何ということもないすらすら感」の中に、素知らぬ顔して織り込んでる歌なんですね、これ。技巧歌で一番上手なのは、作為の跡を感じさせぬもの。ここまで素知らぬ顔して仕掛けが深いやつは、そう簡単には読めません:詠めないことは言うまでもなし・・・誰が、誰に、どんな状況で、仕掛けた謎々だと思います? ― 答えは:
(状況)「京都の大覚寺にて、古来名を知られた滝が、今は水もれてしまった情景を見て、満座の人々の前で」
(誰が?)当代随一の文人として名が聞こえた「藤原公任」が、
(誰に?)当代随一の権勢家と誰もが認める「藤原道長」に、
この謎掛け満載の天然風技巧歌を、すらすらと(即興的に)詠み掛けたのでした・・・即興と言っても、名だたる貴人ともども大覚寺でのに出席するからには、「れたる名瀑」の前で詠歌することになるだろう、という読みぐらいは当然、賢明なる公任ならば、事前に持っていたですが。
 この公任さんと道長さんは、浅からぬ因縁が数々ある関係で、基本的にはライバル同士です。箇条書き的に整理してみましょうか:
曾祖父
道長公任ともに)藤原忠平(人呼んで「貞信公」:第26番歌作者)
・・・藤原長者としての彼の先々代は(父の)基経(藤原氏初の「関白」として、天皇に"謝罪"させたことすらある豪腕政治家)
・・・先代は(兄の)時平菅原道真を謀略により太宰府で憤死させ、39歳で呪い殺されたと評判の人)
・・・いずれもコワモテの先輩達とは異なり、温厚篤実忠平は天皇・貴人からの信望もあつく、宇多(59)・醍醐(60)・朱雀(61)・村上(62)と天皇四代の「関白」として国政を司り、息子達には「藤原流帝王学」を授けるとともに、朝廷儀式の次第・起源・意義などの「有職故実」を伝授、「小野宮流/九条流」の源流を為す。
<祖父>
道長)藤原師輔
・・・「九条」流の開祖。色好み(女性関係も風流関係も)として知られ、最高位こそ「右大臣」だから異母兄の実頼(左大臣、後に関白)に劣ったが、入内させた娘達が天皇の皇子に恵まれたため、外戚としての権威により、以後、「九条 > 小野宮」の藤原氏勢力図が出来上がる。
公任)藤原実頼
・・・「小野宮」流の開祖。村上天皇時代の出世頭(左大臣)で、次代冷泉天皇(63代)の「関白」ともなるが、天皇の外祖父となることは遂になく、やがて異母弟の師輔(及びその子の伊尹兼家)の勢力に圧倒される。
<父>
道長)藤原兼家
・・・言わずと知れたあの『蜻蛉日記』(974頃から)で不実ぶりを暴露されて千年以上も晒し者になっている「道綱母の夫」だが、政治面での鉄面皮半端ではなく、父師輔の後を受けて兄伊尹ともども政界を牛耳り、邪魔な源氏勢力を謀略で中央から追放し、天皇も冷泉から円融(64代)へと僅か二年で軽々と交替させる・・・が、兄伊尹の死後に「関白」位を次兄兼通に奪われてからは、悪夢のようなイヤガラセを受けて左遷に次ぐ左遷の政治的地獄の中にとされる・・・が、兼通の死後に息を吹き返し、娘詮子が生んだ円融天皇の息子(後の一条天皇:66代)を帝位にけるために、かつて兄伊尹ともども「狂気説」で退位に追い込んだ冷泉帝の息子の花山天皇(65代)をわずか2年でし討ちするような形で出家に追い込み、自身は「太皇太后皇太后皇后」に準ずる「准三后」という「天皇の臣下にして臣下に非ざる皇室扱いの貴人」としてやりたい放題を演じ、死の直前には(「准三后」位と違って実質的に継承可能な)「関白」位をもらって、嫡男道隆にこれを譲る・・・道長兼家の五男で、父の死の時点では、政治的にはあまり目立たぬ存在だった。
公任)藤原頼忠
・・・既にもうパッとしなくなり始めていた小野宮流の次男として生まれ、嫡男の早死によって当主となる。ライバル九条流の当主として「関白」位にいた兼通は、実弟の兼家蛇蝎如く嫌って左遷し、政治的にも私生活でもこの頼忠昵懇の仲となる。兼通は官位の慣例を無視してまで頼忠を出世させ、病気になって自身の死期が迫るのを感じると、「関白」を頼忠に譲った上、御丁寧に憎っくき兼家の官位を格下げする「最期っ屁」まで放ってからこの世を去る。
・・・官位では兼家より上の頼忠ながら、天皇にがせた娘の遵子は、「中宮」として立后して名目上は一番偉い奥様になったにもかかわらず、皇子には恵まれない;逆にライバル兼家の娘詮子皇子(後の一条帝)を産むなど、後宮の勢力争いでは父同様またも「九条家」に後れを取ってしまう。
・・・政治的には、円融天皇が(醍醐・村上帝時代の「延喜・天暦の治」のような)天皇親政体制に憧れて、「関白」の頼忠に権力を集中させずに「左大臣」源雅信に政治をらせ、一方ではまた兼家の勢力もれない、など、四者の思惑と行動が入り乱れて政局は停滞、16年の長期政権だった円融帝時代の末期は、政治的にはもうボロボロの有り様だったという。
・・・円融帝の後を継いだ花山天皇は外祖父不在(伊尹が既に死亡)だったため、頼忠は先帝に引き続き「関白」位に留まり、娘の藤原諟子女御として花山帝にがせるが、やはり皇子には恵まれない。花山帝そのものからして、僅か2年で、ライバル兼家の謀略によって出家させられてしまい、次帝として兼家の孫の一条天皇が8歳にして皇位にくと、頼忠は「関白」を辞し、以後は兼家方の「九条流」が藤原摂関家の嫡流となり、「小野宮流」は"有職故実の名門"として、文芸方面で僅かにその面目を保つも、政治的にはまったく振るわなくなる。
 ・・・どうです、道長公任、結構スリリングな関係でしょう?この話にはまだ続きがあるんです(なんか、だんだん、三面記事的に流れて行く感じだけど・・・):
 円融天皇の後宮に入った女性達という構図で言えば、公任の姉の「遵子」と、道長の姉の「詮子」とは、これまた強烈なライバル関係、しかもこの場合、日本国で一番偉い男性の寵愛(更には、子種)を巡る女の争いだから、熾烈にして濃密なること、コールタールの海に火が着いたような感じだった訳です。この女の戦いの帰趨は:
1)形式面では遵子公任)側の勝ち:
・・・詮子押し退けて「中宮=天皇の正式なお妃様」の地位を射止めたのは遵子のほう。
・・・立后の儀式の時、鼻高々公任さんは、詮子側の面々を前に、「こちらのお方は、いつ立后なさるのですかな?」と言い放ってしまい、詮子サロンの女性陣から死んでも消えない恨みを買ったそうです。
2)実質的には詮子道長)側の勝ち:
・・・円融帝の子を宿したのは結局は詮子さんのみ。対する"中宮"遵子には、「小野宮流」の伝統なのか、いつまで経っても皇子が生まれず、天皇の外戚たらんとした一族の面目はまるで立ちませんでした。
・・・過日の恨みを忘れぬ詮子側の女房達の一人は、公任の目の前でこう言ったそうです:「お姉様の"素腹の后子種も宿らぬ無駄な子宮をお持ちの奥方様"はどちらにおいでですか?」・・・どひゃーっ!げに恐ろしきは女の恨み、特に、「自分自身の事(古語で言う"私")」ならぬ「自分の大事なあの人に成り代わり(古語で言う"公")物申す!(知る人ぞ知る倭国のネチネチ伝統芸<おほやけはらだち(公腹立ち)>)」の大義名分で犯す女の罪の、ネトーッとコワーい事ときたら、千年たっても万年たっても、変わるものではございませぬ。
 ・・・え?この侮辱を受けた公任さん、小野宮流の貴公子が、どう切り返したかも知りたい、ですか?・・・はぁ、まぁ、三面記事ですものね、それぐらい読者サービスしなきゃ・・・でも、あんまり面白くはないですよ:
公任)「先年の事を思ひおかれたるなり。みづからだにいかがとおもひつる事なれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとおぼえしか」とこそのたまひけれ。(・・・このあたりのエピソードはいずれも『大鏡』より)
・・・翻訳しますと、「先頃の姉の立后の時の事をまだ覚えておられるようですね。姉の懐妊がない件については、この私自身もどうなっているのかとかねがね思い続けているぐらいですから、貴女が"素腹お妃様"とお呼びになるのも、もっともなことです。実際、既にもう消え入ったかのような心境ですよ。」
 全然、真面目で、隠し味もなくて、なんか拍子抜けしちゃいますが、こうして感情を露わにしない対応が平安貴人としてはよかったのでしょうか?・・・まぁ、悪くはないだろうし、悪気も勿論ないのだろうけれど、ここまで殊勝まめやかに返答されちゃったら、嫌味を言った女房の方(「内侍」とかいう女性)も困ったでしょうね・・・あ、彼女、その後「譴責処分」になったそうです。まぁ、これは自業自得、御主人様の名の下に「点数稼ぎ+自身の鬱憤晴らし」を図るような女の浅知恵+深情けなんてものは、一罰百戒、見せしめにひどい目にわせるのが(同様のダメ女どもにブレーキかけて燎原の火の延焼を食い止める上でも)一番いいのだから、太宰府にでも陸奥にでもどこへでも吹っ飛ばしちゃえばいいんです。
 でも、この事件の顛末って、あの「藤原実方、"陸奥歌枕の旅"」(第51番歌参照)を彷彿とさせません?・・・あの事件の"被害者"として一条天皇の「蔵人頭」に昇進させてもらった(との伝説がある)藤原行成夭逝した第50番歌藤原義孝の息子)も、この事件の公任同様、まるで感情の籠もらぬ機械のような理知的反応によって「面目を施した」形だったけど、その藤原行成・藤原公任・藤原斉信、源俊賢の四人は、『一条朝の四納言』と呼ばれる人達、つまりは道長の政治上のブレーン(頭脳)なんですよねぇ・・・。
 やりたい放題の兼通兼家道隆たちの横暴で、かなり荒れ気味だった政治の世界だから、その立て直しのためには、こうした怜悧な計算の上に振る舞える賢人たちが必要だったのだ、とは言えるかもしれないけれど、「御堂関白(って、本当は関白にはいてないんですが)」藤原道長側近の面々は、「中関白」藤原道隆サイドの(清少納言の『枕草子』で描かれていたような)打ち解けた柔らかい平安貴族の雰囲気とは、随分と違ってる気がします・・・まぁ、政治の世界と後宮は、おのずから別世界ではあるのだけれど。
 公任以外の人達についてもついでに書いておくと、藤原斉信は、『枕草子』でも清少納言が盛んに誉めてる風流人・・・ということは、道長サイドから見れば敵側の中宮定子御一行様に対しても、それなり以上の礼を尽くしていたということで、その立ち回り方の作法もやはり、公任行成同様、「政治的に正しい端正さ」だった、ということになりますね。若い時からカミソリのようにキレる知恵者で、道長はこの人を、若輩の身分から要職へと大抜擢しています。人事の前例にわれないという点では、父の兼家もその兄の兼通道長の兄の道隆もみんなそうでしたが、彼らが「自分の気に入った人間を昇進させて周囲の顰蹙を買う」ことが多かったのと違って、道長の人事は人物本位:優れた人材であれば、敵側だろうが何だろうがきちんと見込んで採用し、自分の政治に役立てます。公任も、そうした道長の本質を見抜いて、彼の側に付く道を選んだ一人でした。なんか、"藤原道長"と"織田信長"が、ダブって見えてくる話ですね。してみると、有職故実に通じた知恵者の"公任"はさしづめ"惟任日向守(明智)光秀"か・・・あ、公任道長を裏切ってはいませんので念のため(たまーにスネたりはしてたけど)。
 源俊賢は、道長の父兼家及びその兄伊尹の謀略により「安和の変」(969)で左大臣から太宰権帥に左遷された源高明の息子。言うなれば、「九条流」は彼の一族の仇敵になる訳ですが、道長以前に兄の道隆俊賢抜擢したので、曰く付きの家柄の彼も中央政界の要職に復帰できたのでした。その恩を忘れず、例の「伊周隆家兄弟の花山院襲撃事件(第54番歌参照)」の際には、処罰を検討するために集まった「公卿」の中で唯一彼が(今は亡き道隆の恩義に報いるべく)「中関白家」の擁護に回ったといいます・・・律儀な人だったようです。
 その律儀な源俊賢に推挙される形で、「地下人」(=殿上の間への昇殿を許されぬ下級貴族)の身分から一気に「蔵人頭」(=天皇の一番の側近)に大抜擢されたのが、あの藤原行成兼家の兄伊尹の孫、という名門ながら、父(第50番歌作者藤原義孝)が幼時に亡くなり、外祖父源保光の養子同然になる(名目上は相変わらず"藤原"でしたけど)など、大変な辛酸を舐めた苦労人の行成に、俊賢は、父高明の左遷と一族の没落の憂き目を越えて中央政界に返り咲いた自分自身の姿を重ねて見ていたのかもしれません・・・なんとなく浪花節
 という訳で、伝説とは異なり、行成の出世の直接の契機は「藤原実方との喧嘩での冷静な対応(第51番歌参照)」ではなくて、「"前例がない"と渋る一条天皇を説き伏せた、源俊賢の熱心な取り立て」だったんです。その俊賢の目に狂いはなく、行成は一条天皇の側近として申し分ない働きをした上に、当代随一の書道名人としても名を残し(当時の人々は「小野道風藤原佐理藤原行成」を"三蹟"=筆の三名人と呼んだ)、和様書道の「世尊寺流」の開祖となりました。
 一条天皇は、次第道長と政治的に歩調が合わない部分が目立ってきて、定子に生ませた第一皇子敦康親王:999-1019)を皇太子(つまりは次代の天皇)に立てようと望みます。一条帝がその敦康親王後見役として期待したのが行成だったのですが、あの道長真っ向から敵に回すような政治的自殺行為を、賢明な行成が選択する道理がありません。結局、彼は、逆に一条天皇を説得して、道長の娘彰子が生んだ皇子敦成親王・・・後の後一条天皇:68代)の立太子を実現します。この経緯だけを見ると、行成がまるで道長腰巾着みたいに見えますが、一方で行成は、敦康親王を「一品親王」として後日の天皇即位の可能性を残し、生母定子も父一条天皇も失った後の親王の「家司」(家政を司る公的役職)を最期まで(二十歳まで、でしたが)勤め上げる、といった律儀な働きも見せています・・・良筆の主の心は、やはり真っ直ぐなもの、という例ですね。
 こうして並べてみただけでも、何となく雰囲気は伝わりませんか?道長を取り巻く有能なる人材の、非の打ち所のない完璧性が・・・ついでに、女性陣も付け加えときましょうか(完璧性・・・多分・・・の順番に):
1)紫式部・・・『源氏物語』作者
2)赤染衛門・・・『栄花物語』(正編)作者
3)大弐三位・・・紫式部の娘&後冷泉天皇の乳母
4)伊勢大輔・・・史上最高の早詠み名人
・・・あと、「政治的に正しい完璧性」には縁遠いけど、「芸術的完璧性」という観点からは、次の二人も忘れる訳には行きません:
番外1)和泉式部・・・スキャンダル満載の恋多き女・・・だけど、日本和歌界最高の天才
番外2)小式部内侍・・・和泉式部の娘で、いろんな意味でお母さん似
 ・・・こうまで並べ立てると、道長さんの確かな人選びの眼の凄さばかりが印象に残りますが、実際の道長サン、実は、相当お茶目でヤンチャな人だったので、彼らしさをよく示す次のエピソードをも紹介しときましょう(公任さんの学識の高さもゲスト出演してる話なので):
 四条大納言公任)の、かく何事もすぐれめでたくおはしますを、大入道殿兼家)「いかでかからむましくもあるかな。我が子ども(道隆道兼道長)の、影だにふむべくもあらぬこそ口をしけれ」と申させたまひければ、中関白殿(道隆)、粟田殿道兼)などは、げにさもやとや思すらむと、はづかしげなる御気色にて、(道長)「影をばふまで、つらをやはふまぬ」とこそ仰せられけれ。・・・『大鏡』より。
 ・・・公任がこうまで文芸全般に渡り卓越しておいでなのを、兼家は「どうしてまぁこうなのだろうか。ましいことだ。うちの子供達ときたら、あの公任の影を踏むことさえできまい。悔しいことだなぁ」とおっしゃった。道隆道兼などは(まったくその通りだ)と内心で思ったか、面目なさそうにうなだれていたが、道長だけはこうおっしゃったとさ ― 「この道長は、公任の影なんて踏まずに、顔を踏んづけてやりますよ」。
 実際、政治的には公任の顔も三条天皇の目(第68番歌参照)も何もかも踏みつけて頂点に立った道長でしたが、公任の学才・見識を至上のものと見ると、これを厚遇するのをるような肝の小さな人ではありませんでした。公任もまた「文芸こそ我が生きる道」とばかり、超絶的な才能を遺憾なく発揮してみせます。同じく『大鏡』に見える「三舟の才」のエピソードにある通り、「和歌」のみならず「作文=漢詩文」・「管弦=音楽」にも優れた万能型の文化人だった彼の残した文芸史上の足跡を、最後に箇条書きで紹介しときましょう:
1)『拾遺抄』(997頃)
・・・全十巻の、公任が選んだ和歌名作撰。この作品が重要なのは、第三の勅撰集『拾遺和歌集』(1006頃)が、この公任の私撰集の全作品を収めつつ、そこに増補を加えたものだったから。つまり公任こそが『拾遺集』の実質的な撰者だったということ。"拾遺"の名の通り、既に成立していた二つの勅撰集『後撰集』(950頃)と『古今集』(905)の選外作品に、『万葉集』(759頃)の作品を加えたもの。公任自身を初めとする当代の作品も当然含まれるが、『万葉集』の再評価を促した点、恋歌の秀作を多く含む点が特徴。
2)『新撰髄脳』(成立年代不明)
・・・『古今和歌集』「仮名序」での紀貫之の論を発展させて、公任の考える秀歌の条件を述べた歌論書(一巻)で、歌集のオマケの域を出なかった貫之の序文などとは異なる、詠歌作法について本格的に述べた体系本としては先駆的作品の一つ。
3)『和歌九品』(1009以降成立)
・・・「九品」とは日本仏教が定める「極楽の9レベル」。生前の行ない次第で、あの世の等級も分かれる、というあたりが、貴族階級社会と結び付いて信奉されていた当時の仏教らしくて何とも嫌味。具体的に示すと次のようになるらしい:
<ジャパネスク中古仏教の極楽往生の等級>
 1)上品上生 2)上品中生 3)上品下生 4)中品上生 5)中品中生 6)中品下生 7)下品上生 8)下品中生 9)下品下生
・・・ったく、よくもまぁ宗教者ともあろうものがこういうマネを・・・こんな愚かな仕分けバッカしてる連中が説く「天国」だの「極楽」だの「上品上生」だのがロクなもんじゃないことぐらい、心ある人間、知性ある人間、上品なる品性ある人間に、解らぬ道理がないってのに・・・ホント、バカ!最低!こんな連中が行く「天国」なんて私には「地獄」だから、そんなとこ、頼まれたって絶ーっ対ぃ、生きません。「じゃ、オマエは下品下生だ!」?・・・いいえ、そこにも私は居ません。私が居るのは、余所様の宗教の煉獄か天国か、はたまた宇宙の虚無の中、ニッポンジンの愚かな仕分けの及ばぬ静かな風の中・・・さいならっ。・・・って、まだ終わっちゃいけなかった、とにかくこの和流我流ブッキョーの差別主義にって、和歌の数々に9つの品定め(上品上・・・下品下)を施しつつ紹介する「和歌ミシュランby 藤原公任」が『和歌九品』。
4)『三十六人撰』(成立年代不明)
・・・公任が選んだ三十六人の優れた歌人の和歌のアンソロジー。この集に引かれた歌人達が、所謂三十六歌仙」。以後、「"中古"三十六歌仙」とか「"女房"三十六歌仙」とかの形で、やたら多くの"名人"がインフレ的に増産されることになる・・・ったく、ニホンジンって生き物はバカな名ばかりの数字バッカありがたがって、もう・・・ブツブツ・・・まぁ、紹介しちゃった責任上、一応36人分書くけど、殆ど意味がないのでそのつもりで読み流してくださいっ:
<『小倉百人一首』入集三十六歌仙>・・・歌番号順:
柿本人麻呂山部赤人猿丸大夫大伴家持小野小町僧正遍昭在原業平藤原敏行・伊勢・素性法師・藤原兼輔源宗于凡河内躬恒壬生忠岑坂上是則紀友則・藤原興風紀貫之平兼盛壬生忠見清原元輔・藤原敦忠・藤原朝忠源重之大中臣能宣
<『小倉百人一首』選外三十六歌仙>・・・生年順:
大中臣頼基(886?-958)・源公忠(889-948)・藤原清正(?-958)・源信明(910-970)・源順(911-983)・中務(912-991)・藤原仲文(923-992)・斎宮女御(929-985)・藤原高光(940-994)・藤原元真(?-?)・小大君(?-?)
5)『和漢朗詠集』(1018頃)
・・・和歌216+漢詩588の名詩集。それ自体は大した意味がないけど、これが、藤原道長の娘威子後一条天皇(68代)に入内する際のお祝いの品として提供された屏風色紙に書かれてた(清書したのは天下の能筆家藤原行成!)という点が、公任の才と道長の権勢の双方を象徴していて面白い。
 ・・・と、文芸界の大御所としての人生を全うして、1041年、藤原公任は76歳で大往生を遂げたのでした(最終官位は「正二位・権大納言」)。奇しくも公任道長は同じ966年生まれでしたが、道長は既に1028年に(63歳で)世を去っています。長生き競争では公任の勝ち。絶えて久しくなりぬる彼らの、千年後の聞こえに関しては・・・どちらの名が上かは、「名」の捉え方しだい、といったところでしょうか。
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