解題
「滝の音は聞こえなくなってもう久しいが、その名だけは世に流れて今なお聞こえている」・・・ちょっと見には何ということもなくすらすら詠んである歌です・・・が、この場合、その「何ということもないすらすら感」こそが
歌の詮(=要点)。
実はこの歌、「
縁語」含みなんです:それも五つも・・・二つはよくある「同音異義」型だけど、残る三つは「同語異義」型、つまりは、容易に見抜けぬ特殊な「
縁語」・・・あなたに、それが、見抜けますか?(・・・と、作者は読者に謎掛けてるわけですね)
1)第一句:滝の「音」・・・ここでは物理的な「音響」の意味。
・・・これが第四句「名(こそ流れて)」に絡むと、同じ「音」でも社会的「反響」の同語異義に化ける。
・・・この「音」が「物理的音響」の意のみを表わすならその読み方は「ね」でOK ― というより「ね」の方が
BETTER:「たきのねは」だと丁度五音だけど、「たきのおとは」だと六音で「字余り」になってしまうから ― でも、ここでの「音」は「社会的反響」の意をも響かせねばならぬのだから、「ね」ではなく「おと」と読まないとダメ。そうして字余りの「たきのおとは」の不自然さを
敢えて自ら求めに行け、と詠み手は読み手に求めているわけ:それが出来る人の詩的感性には「音響/反響」の両者がきちんと響き合っているということ/字音上の
帳尻合わせに傾いて「たきのねは」とやる人の耳には「社会的反響」は聞こえない、ということ。詠み手自らこの詩を読む時には、「たきのねは」でなく「たきのおとは」とわざわざ字余りで初句を読み上げることで、「ん?」という意識の波紋を聞き手の心に引き起こそうとする気配も感じられます・・・こうして初句からもう、詠み手は読み手/聞き手に挑戦状突き付けているんです。
2)第三句:(絶えて久しく)「なり」(ぬれど)・・・ここでは動詞の「成る」。
・・・これが初句「(滝の)音」に絡むと同音異義語の動詞「鳴り」に化ける。
3)第三句:(なり)「ぬれ」(ど)・・・ここでは助動詞「ぬ」の
已然形。
・・・これが初句「滝」に絡むと同音異義語の動詞「濡れ」に化ける。
4)第四句:(名こそ)「流れて」・・・ここでは「世間に
流布して」の意味。
・・・これが初句「滝」に絡むと、同じ「流る」でも「水が流れる」の同語異義に化ける。
5)第五句:(名こそ流れて
猶)「聞こえ」(けれ)・・・ここでは「世間に評判が鳴り響く」の意味。
・・・これが初句「(滝の)音」に絡むと、同じ「聞こゆ」でも「耳に音が届く」の同語異義に化ける。
・・・どうでした、五つのナゾナゾ、いくつ解けました?全部わかった人、どれくらいいるでしょう?
しかも、その周到に手の込んだ謎掛けを、一見、何の作為も感じられぬ「何ということもないすらすら感」の中に、
素知らぬ顔して織り込んでる歌なんですね、これ。技巧歌で一番上手なのは、作為の跡を感じさせぬもの。ここまで
素知らぬ顔して仕掛けが深いやつは、そう簡単には読めません:詠めないことは言うまでもなし・・・誰が、誰に、どんな状況で、仕掛けた謎々だと思います? ― 答えは:
(状況)「京都の
大覚寺にて、古来名を知られた滝が、今は水も
涸れてしまった情景を見て、満座の人々の前で」
(誰が?)当代
随一の文人として名が聞こえた「藤原
公任」が、
(誰に?)当代
随一の権勢家と誰もが認める「藤原
道長」に、
この謎掛け満載の天然風技巧歌を、すらすらと(
即興的に)詠み掛けたのでした・・・
即興と言っても、名だたる貴人ともども
大覚寺での
宴に出席するからには、「
涸れたる
名瀑」の前で詠歌することになるだろう、という読みぐらいは当然、賢明なる
公任ならば、事前に持っていた
筈ですが。
この
公任さんと
道長さんは、浅からぬ
因縁が数々ある関係で、基本的にはライバル同士です。箇条書き的に整理してみましょうか:
<
曾祖父>
道長・
公任ともに)藤原
忠平(人呼んで「
貞信公」:
第26番歌作者)
・・・藤原長者としての彼の先々代は(父の)
基経(藤原氏初の「関白」として、天皇に"謝罪"させたことすらある豪腕政治家)
・・・先代は(兄の)
時平(
菅原道真を謀略により
太宰府で憤死させ、39歳で呪い殺されたと評判の人)
・・・いずれも
コワモテの先輩達とは異なり、
温厚篤実な
忠平は天皇・貴人からの信望もあつく、
宇多(59)・
醍醐(60)・
朱雀(61)・村上(62)と天皇四代の「関白」として国政を
司り、息子達には「藤原流帝王学」を授けるとともに、朝廷儀式の
次第・起源・意義などの「
有職故実」を伝授、「
小野宮流/九条流」の源流を為す。
<祖父>
道長)藤原
師輔・・・「九条」流の開祖。色好み(女性関係も風流関係も)として知られ、最高位こそ「右大臣」だから異母兄の
実頼(左大臣、後に関白)に劣ったが、
入内させた娘達が天皇の
皇子に恵まれたため、外戚としての権威により、以後、「九条 >
小野宮」の藤原氏勢力図が出来上がる。
公任)藤原
実頼・・・「
小野宮」流の開祖。村上天皇時代の出世頭(左大臣)で、
次代冷泉天皇(63代)の「関白」ともなるが、天皇の外祖父となることは遂になく、やがて異母弟の
師輔(及びその子の
伊尹・
兼家)の勢力に圧倒される。
<父>
道長)藤原
兼家・・・言わずと知れたあの『
蜻蛉日記』(974頃から)で
不実ぶりを暴露されて千年以上も
晒し者になっている「
道綱母の夫」だが、政治面での
鉄面皮も
半端ではなく、父
師輔の後を受けて兄
伊尹ともども政界を
牛耳り、邪魔な源氏勢力を謀略で中央から追放し、天皇も
冷泉から
円融(64代)へと
僅か二年で軽々と交替させる・・・が、兄
伊尹の死後に「関白」位を次兄
兼通に奪われてからは、悪夢のようなイヤガラセを受けて左遷に次ぐ左遷の政治的地獄の中に
堕とされる・・・が、
兼通の死後に息を吹き返し、娘
詮子が生んだ
円融天皇の息子(後の一条天皇:66代)を帝位に
就けるために、かつて兄
伊尹ともども「狂気説」で退位に追い込んだ
冷泉帝の息子の
花山天皇(65代)をわずか2年で
騙し討ちするような形で出家に追い込み、自身は「
太皇太后・
皇太后・
皇后」に準ずる「
准三后」という「天皇の臣下にして臣下に
非ざる皇室扱いの貴人」としてやりたい放題を演じ、死の直前には(「
准三后」位と違って実質的に継承可能な)「関白」位をもらって、
嫡男の
道隆にこれを譲る・・・
道長は
兼家の五男で、父の死の時点では、政治的にはあまり目立たぬ存在だった。
公任)藤原
頼忠・・・既にもうパッとしなくなり始めていた
小野宮流の次男として生まれ、
嫡男の早死によって当主となる。ライバル九条流の当主として「関白」位に
就いた
兼通は、実弟の
兼家を
蛇蝎の
如く嫌って左遷し、政治的にも私生活でもこの
頼忠と
昵懇の仲となる。
兼通は官位の慣例を無視してまで
頼忠を出世させ、病気になって自身の死期が迫るのを感じると、「関白」を
頼忠に譲った上、
御丁寧に憎っくき
兼家の官位を格下げする「
最期っ屁」まで
放ってからこの世を去る。
・・・官位では
兼家より上の
頼忠ながら、天皇に
嫁がせた娘の
遵子は、「
中宮」として
立后して名目上は一番偉い奥様になったにもかかわらず、
皇子には恵まれない;逆にライバル
兼家の娘
詮子は
皇子(後の一条帝)を産むなど、
後宮の勢力争いでは父同様またも「九条家」に後れを取ってしまう。
・・・政治的には、
円融天皇が(
醍醐・村上帝時代の「
延喜・天暦の治」のような)天皇親政体制に
憧れて、「関白」の
頼忠に権力を集中させずに「左大臣」
源雅信に政治を
執らせ、一方ではまた
兼家の勢力も
侮れない、など、四者の
思惑と行動が入り乱れて政局は停滞、16年の長期政権だった
円融帝時代の末期は、政治的にはもうボロボロの有り様だったという。
・・・
円融帝の後を継いだ
花山天皇は外祖父不在(
伊尹が既に死亡)だったため、
頼忠は先帝に引き続き「関白」位に留まり、娘の藤原
諟子を
女御として
花山帝に
嫁がせるが、やはり
皇子には恵まれない。
花山帝そのものからして、
僅か2年で、ライバル
兼家の謀略によって出家させられてしまい、次帝として
兼家の孫の一条天皇が8歳にして皇位に
就くと、
頼忠は「関白」を辞し、以後は
兼家方の「九条流」が藤原摂関家の
嫡流となり、「
小野宮流」は"
有職故実の名門"として、文芸方面で
僅かにその面目を保つも、政治的にはまったく振るわなくなる。
・・・どうです、
道長と
公任、結構スリリングな関係でしょう?この話にはまだ続きがあるんです(なんか、だんだん、三面記事的に流れて行く感じだけど・・・):
円融天皇の
後宮に入った女性達という構図で言えば、
公任の姉の「
遵子」と、
道長の姉の「
詮子」とは、これまた強烈なライバル関係、しかもこの場合、日本国で一番偉い男性の
寵愛(更には、
子種)を巡る女の争いだから、
熾烈にして濃密なること、コールタールの海に火が着いたような感じだった訳です。この女の戦いの
帰趨は:
1)形式面では
遵子(
公任)側の勝ち:
・・・
詮子を
押し退けて「
中宮=天皇の正式な
お妃様」の地位を射止めたのは
遵子のほう。
・・・
立后の儀式の時、
鼻高々の
公任さんは、
詮子側の面々を前に、「こちらのお方は、いつ
立后なさるのですかな?」と言い放ってしまい、
詮子サロンの女性陣から死んでも消えない
恨みを買ったそうです。
2)実質的には
詮子(
道長)側の勝ち:
・・・
円融帝の子を宿したのは結局は
詮子さんのみ。対する"
中宮"
遵子には、「
小野宮流」の伝統なのか、いつまで経っても
皇子が生まれず、天皇の外戚たらんとした一族の面目はまるで立ちませんでした。
・・・過日の
恨みを忘れぬ
詮子側の女房達の一人は、
公任の目の前でこう言ったそうです:「お姉様の"
素腹の后=
子種も宿らぬ無駄な子宮をお持ちの奥方様"はどちらにおいでですか?」・・・どひゃーっ!げに恐ろしきは女の
恨み、特に、「自分自身の事(古語で言う"私")」ならぬ「自分の大事なあの人に成り代わり(古語で言う"公")物申す!(知る人ぞ知る
倭国のネチネチ伝統芸<おほやけはらだち(公腹立ち)>)」の
大義名分で犯す女の罪の、ネトーッとコワーい事ときたら、千年たっても万年たっても、変わるものではございませぬ。
・・・え?この侮辱を受けた
公任さん、
小野宮流の貴公子が、どう切り返したかも知りたい、ですか?・・・はぁ、まぁ、三面記事ですものね、それぐらい読者サービスしなきゃ・・・でも、あんまり面白くはないですよ:
(
公任)「先年の事を思ひおかれたるなり。みづからだにいかがとおもひつる事なれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとおぼえしか」とこそのたまひけれ。(・・・このあたりのエピソードはいずれも『
大鏡』より)
・・・翻訳しますと、「先頃の姉の
立后の時の事をまだ覚えておられるようですね。姉の懐妊がない件については、この私自身もどうなっているのかとかねがね思い続けているぐらいですから、
貴女が"
素腹の
お妃様"とお呼びになるのも、もっともなことです。実際、既にもう消え入ったかのような心境ですよ。」
全然、
真面目で、隠し味もなくて、なんか
拍子抜けしちゃいますが、こうして感情を
露わにしない対応が平安貴人としてはよかったのでしょうか?・・・まぁ、悪くはないだろうし、悪気も
勿論ないのだろうけれど、ここまで
殊勝に
まめやかに返答されちゃったら、
嫌味を言った女房の方(「
進の
内侍」とかいう女性)も困ったでしょうね・・・あ、彼女、その後「
譴責処分」になったそうです。まぁ、これは
自業自得、御主人様の名の下に「点数稼ぎ+自身の
鬱憤晴らし」を図るような女の浅知恵+深情けなんてものは、
一罰百戒、見せしめにひどい目に
遭わせるのが(同様のダメ女どもにブレーキかけて
燎原の火の延焼を食い止める上でも)一番いいのだから、
太宰府にでも
陸奥にでもどこへでも吹っ飛ばしちゃえばいいんです。
でも、この事件の
顛末って、あの「
藤原実方、"
陸奥歌枕の旅"」(
第51番歌参照)を
彷彿とさせません?・・・あの事件の"被害者"として一条天皇の「
蔵人頭」に昇進させてもらった(との伝説がある)
藤原行成(
夭逝した
第50番歌藤原
義孝の息子)も、この事件の
公任同様、まるで感情の
籠もらぬ機械のような理知的反応によって「面目を施した」形だったけど、その
藤原行成・藤原
公任・藤原
斉信、源
俊賢の四人は、『一条朝の四納言』と呼ばれる人達、つまりは
道長の政治上の
ブレーン(頭脳)なんですよねぇ・・・。
やりたい放題の
兼通・
兼家・
道隆たちの横暴で、かなり荒れ気味だった政治の世界だから、その立て直しのためには、こうした
怜悧な計算の上に振る舞える賢人たちが必要だったのだ、とは言えるかもしれないけれど、「
御堂関白(って、本当は関白には
就いてないんですが)」藤原
道長側近の面々は、「
中関白」藤原
道隆サイドの(清少納言の『
枕草子』で描かれていたような)打ち解けた柔らかい平安貴族の雰囲気とは、随分と違ってる気がします・・・まぁ、政治の世界と
後宮は、おのずから別世界ではあるのだけれど。
公任以外の人達についてもついでに書いておくと、藤原
斉信は、『
枕草子』でも清少納言が盛んに誉めてる風流人・・・ということは、
道長サイドから見れば敵側の
中宮定子御一行様に対しても、それなり以上の礼を尽くしていたということで、その立ち回り方の作法もやはり、
公任・
行成同様、「
政治的に正しい端正さ」だった、ということになりますね。若い時からカミソリのようにキレる知恵者で、
道長はこの人を、
若輩の身分から要職へと大
抜擢しています。人事の前例に
囚われないという点では、父の
兼家もその兄の
兼通も
道長の兄の
道隆もみんなそうでしたが、彼らが「自分の気に入った人間を昇進させて周囲の
顰蹙を買う」ことが多かったのと違って、
道長の人事は人物本位:優れた人材であれば、敵側だろうが何だろうがきちんと見込んで採用し、自分の政治に役立てます。
公任も、そうした
道長の本質を見抜いて、彼の側に付く道を選んだ一人でした。なんか、"藤原
道長"と"
織田信長"が、ダブって見えてくる話ですね。してみると、
有職故実に通じた知恵者の"
公任"はさしづめ"
惟任日向守(明智)光秀"か・・・あ、
公任は
道長を裏切ってはいませんので念のため(たまーにスネたりはしてたけど)。
源
俊賢は、
道長の父
兼家及びその兄
伊尹の謀略により「
安和の変」(969)で左大臣から
太宰権帥に左遷された
源高明の息子。言うなれば、「九条流」は彼の一族の
仇敵になる訳ですが、
道長以前に兄の
道隆が
俊賢を
抜擢したので、
曰く付きの家柄の彼も中央政界の要職に復帰できたのでした。その恩を忘れず、例の「
伊周・
隆家兄弟の
花山院襲撃事件(
第54番歌参照)」の際には、処罰を検討するために集まった「
公卿」の中で唯一彼が(今は亡き
道隆の恩義に報いるべく)「
中関白家」の
擁護に回ったといいます・・・
律儀な人だったようです。
その
律儀な源
俊賢に推挙される形で、「
地下人」(=
殿上の間への昇殿を許されぬ下級貴族)の身分から一気に「
蔵人頭」(=天皇の一番の側近)に大
抜擢されたのが、あの
藤原行成。
兼家の兄
伊尹の孫、という名門ながら、父(
第50番歌作者
藤原義孝)が幼時に亡くなり、外祖父源
保光の養子同然になる(名目上は相変わらず"藤原"でしたけど)など、大変な
辛酸を舐めた苦労人の
行成に、
俊賢は、父
高明の左遷と一族の没落の
憂き目を越えて中央政界に返り咲いた自分自身の姿を重ねて見ていたのかもしれません・・・なんとなく
浪花節。
という訳で、伝説とは異なり、
行成の出世の直接の契機は「
藤原実方との
喧嘩での冷静な対応(
第51番歌参照)」ではなくて、「"前例がない"と渋る一条天皇を説き伏せた、源
俊賢の熱心な取り立て」だったんです。その
俊賢の目に狂いはなく、
行成は一条天皇の側近として申し分ない働きをした上に、当代
随一の書道名人としても名を残し(当時の人々は「
小野道風・
藤原佐理・
藤原行成」を"
三蹟"=筆の三名人と呼んだ)、和様書道の「
世尊寺流」の開祖となりました。
一条天皇は、
次第に
道長と政治的に歩調が合わない部分が目立ってきて、
定子に生ませた第一
皇子(
敦康親王:999-1019)を皇太子(つまりは
次代の天皇)に立てようと望みます。一条帝がその
敦康親王の
後見役として期待したのが
行成だったのですが、あの
道長を
真っ向から敵に回すような政治的自殺行為を、賢明な
行成が選択する道理がありません。結局、彼は、逆に一条天皇を説得して、
道長の娘
彰子が生んだ
皇子(
敦成親王・・・後の
後一条天皇:68代)の
立太子を実現します。この
経緯だけを見ると、
行成がまるで
道長の
腰巾着みたいに見えますが、一方で
行成は、
敦康親王を「
一品親王」として
後日の天皇即位の可能性を残し、生母
定子も父一条天皇も失った後の親王の「
家司」(家政を
司る公的役職)を最期まで(二十歳まで、でしたが)勤め上げる、といった
律儀な働きも見せています・・・良筆の主の心は、やはり真っ直ぐなもの、という例ですね。
こうして並べてみただけでも、何となく雰囲気は伝わりませんか?
道長を取り巻く有能なる人材の、非の打ち所のない完璧性が・・・ついでに、女性陣も付け加えときましょうか(完璧性・・・多分・・・の順番に):
1)紫式部・・・『源氏物語』作者
2)
赤染衛門・・・『
栄花物語』(正編)作者
3)
大弐三位・・・紫式部の娘&
後冷泉天皇の
乳母4)
伊勢大輔・・・史上最高の早詠み名人
・・・あと、「政治的に正しい完璧性」には縁遠いけど、「芸術的完璧性」という観点からは、次の二人も忘れる訳には行きません:
番外1)
和泉式部・・・スキャンダル満載の恋多き女・・・だけど、日本和歌界最高の天才
番外2)
小式部内侍・・・
和泉式部の娘で、いろんな意味でお母さん似
・・・こうまで並べ立てると、
道長さんの確かな人選びの眼の凄さばかりが印象に残りますが、実際の
道長サン、実は、相当お茶目でヤンチャな人だったので、彼らしさをよく示す次のエピソードをも紹介しときましょう(
公任さんの学識の高さもゲスト出演してる話なので):
四条大納言(
公任)の、かく何事もすぐれめでたくおはしますを、
大入道殿(
兼家)「
いかでかからむ。
羨ましくもあるかな。我が子ども(
道隆・
道兼・
道長)の、影だにふむべくもあらぬこそ口をしけれ」と申させたまひければ、
中関白殿(
道隆)、
粟田殿(
道兼)などは、げにさもやとや思すらむと、はづかしげなる御気色にて、(
道長)「影をばふまで、つらをやはふまぬ」とこそ仰せられけれ。・・・『
大鏡』より。
・・・
公任がこうまで文芸全般に渡り卓越しておいでなのを、
兼家は「どうしてまぁこうなのだろうか。
羨ましいことだ。うちの子供達ときたら、あの
公任の影を踏むことさえできまい。悔しいことだなぁ」とおっしゃった。
道隆や
道兼などは(まったくその通りだ)と内心で思ったか、面目なさそうにうなだれていたが、
道長だけはこうおっしゃったとさ ― 「この
道長は、
公任の影なんて踏まずに、顔を踏んづけてやりますよ」。
実際、政治的には
公任の顔も三条天皇の目(
第68番歌参照)も何もかも踏みつけて頂点に立った
道長でしたが、
公任の学才・見識を至上のものと見ると、これを厚遇するのを
憚るような肝の小さな人ではありませんでした。
公任もまた「文芸こそ我が生きる道」とばかり、超絶的な才能を
遺憾なく発揮してみせます。同じく『
大鏡』に見える「
三舟の才」のエピソードにある通り、「和歌」のみならず「
作文=漢詩文」・「管弦=音楽」にも優れた万能型の文化人だった彼の残した文芸史上の足跡を、最後に箇条書きで紹介しときましょう:
1)『
拾遺抄』(997頃)
・・・全十巻の、
公任が選んだ和歌名作撰。この作品が重要なのは、第三の
勅撰集『
拾遺和歌集』(1006頃)が、この
公任の私撰集の全作品を収めつつ、そこに増補を加えたものだったから。つまり
公任こそが
『拾遺集』の実質的な撰者だったということ。"拾遺"の名の通り、既に成立していた二つの
勅撰集『
後撰集』(950頃)と『
古今集』(905)の選外作品に、『
万葉集』(759頃)の作品を加えたもの。
公任自身を初めとする当代の作品も当然含まれるが、『
万葉集』の再評価を促した点、恋歌の秀作を多く含む点が特徴。
2)『
新撰髄脳』(成立年代不明)
・・・『
古今和歌集』「
仮名序」での
紀貫之の論を発展させて、
公任の考える秀歌の条件を述べた歌論書(一巻)で、歌集のオマケの域を出なかった貫之の序文などとは異なる、詠歌作法について本格的に述べた体系本としては先駆的作品の一つ。
3)『
和歌九品』(1009以降成立)
・・・「
九品」とは日本仏教が定める「極楽の9レベル」。生前の行ない
次第で、あの世の等級も分かれる、というあたりが、貴族階級社会と結び付いて信奉されていた当時の仏教らしくて何とも
嫌味。具体的に示すと次のようになるらしい:
<ジャパネスク中古仏教の極楽
往生の等級>
1)
上品上生 2)上品中生 3)上品下生 4)中品上生 5)
中品中生 6)中品下生 7)下品上生 8)下品中生 9)
下品下生・・・ったく、よくもまぁ宗教者ともあろうものがこういうマネを・・・こんな愚かな仕分けバッカしてる連中が説く「天国」だの「極楽」だの「
上品上生」だのがロクなもんじゃないことぐらい、心ある人間、知性ある人間、上品なる品性ある人間に、解らぬ道理がないってのに・・・ホント、バカ!最低!こんな連中が行く「天国」なんて私には「地獄」だから、そんなとこ、頼まれたって絶ーっ対ぃ、生きません。「じゃ、オマエは下品下生だ!」?・・・いいえ、そこにも私は居ません。私が居るのは、
余所様の宗教の
煉獄か天国か、はたまた宇宙の
虚無の中、ニッポンジンの愚かな仕分けの及ばぬ
静かな風の中・・・さいならっ。・・・って、まだ終わっちゃいけなかった、とにかくこの和流我流ブッキョーの差別主義に
倣って、和歌の数々に9つの品定め(
上品上・・・下品下)を施しつつ紹介する「
和歌ミシュランby 藤原
公任」が『
和歌九品』。
4)『三十六人撰』(成立年代不明)
・・・
公任が選んだ三十六人の優れた歌人の和歌の
アンソロジー。この集に引かれた歌人達が、
所謂「
三十六歌仙」。以後、「"中古"
三十六歌仙」とか「"女房"
三十六歌仙」とかの形で、やたら多くの"名人"がインフレ的に増産されることになる・・・ったく、ニホンジンって生き物はバカな名ばかりの数字バッカありがたがって、もう・・・ブツブツ・・・まぁ、紹介しちゃった責任上、一応36人分書くけど、
殆ど意味がないのでそのつもりで読み流してくださいっ:
<『
小倉百人一首』入集
三十六歌仙>・・・歌番号順:
柿本人麻呂・
山部赤人・
猿丸大夫・
大伴家持・
小野小町・
僧正遍昭・
在原業平・
藤原敏行・伊勢・
素性法師・藤原
兼輔・
源宗于・
凡河内躬恒・
壬生忠岑・
坂上是則・
紀友則・藤原
興風・
紀貫之・
平兼盛・
壬生忠見・
清原元輔・藤原
敦忠・藤原
朝忠・
源重之・
大中臣能宣・
<『
小倉百人一首』選外
三十六歌仙>・・・生年順:
大中臣
頼基(886?-958)・源
公忠(889-948)・藤原
清正(?-958)・源
信明(910-970)・
源順(911-983)・
中務(912-991)・藤原
仲文(923-992)・
斎宮女御(929-985)・藤原
高光(940-994)・藤原
元真(?-?)・
小大君(?-?)
5)『
和漢朗詠集』(1018頃)
・・・和歌216+漢詩588の名詩集。それ自体は大した意味がないけど、これが、藤原
道長の娘
威子が
後一条天皇(68代)に
入内する際のお祝いの品として提供された
屏風色紙に書かれてた(清書したのは天下の
能筆家藤原行成!)という点が、
公任の才と
道長の権勢の双方を象徴していて面白い。
・・・と、文芸界の
大御所としての人生を
全うして、1041年、藤原
公任は76歳で
大往生を遂げたのでした(最終官位は「正二位・
権大納言」)。
奇しくも公任と
道長は同じ966年生まれでしたが、
道長は既に1028年に(63歳で)世を去っています。長生き競争では
公任の勝ち。絶えて久しくなりぬる彼らの、千年後の聞こえに関しては・・・どちらの名が上かは、「名」の捉え方しだい、といったところでしょうか。